【試し読み】最旬作家・寺地はるな 心の傷が産んだサスペンス『わたしたちに翼はいらない』②
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他人を殺す。自分を殺す。どちらにしてもその一歩を踏み出すのは意外とたやすい――。最旬の注目度No.1作家・寺地はるなさんが描く長篇『わたしたちに翼はいらない』は、「生きる」ために必要な、救済と再生をもたらすまでのサスペンス。同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らすシングルマザー・朱音、離婚したくてもできない専業主婦・莉子、自殺を考える独身男性・園田は、いじめ、ママ友マウント、モラハラ夫、母親の支配など心の傷を抱えています。そしてやがて……。本日から5日連続で本作の一部を特別公開いたします。
つけっぱなしにしていたテレビから「クモを食べてるみたい」と聞こえてきて、爪を塗る手を止めた。莉子が高校生の頃から放送されている情報番組のカラフルなスタジオで、アイドルなのかなんなのかよくわからない女がプリンを手にはしゃいでいる。うす黄色いプリンの上に絞られた生クリームはたっぷりと白く、ゆるく渦巻いている。女の言った「クモ」は蜘蛛ではなく、雲のことだった。
蜘蛛を食べたことがあるのかと思った。でも空の雲だって食べられないのだから、どちらにせよこの女が言っていることはおかしい。画面の中の女。若いだけで格別に美しいというわけでもない女がきゃあきゃあと耳障りな声を上げ続ける。「うるさ」と呟いてテレビを消し、しばらく爪を塗る作業に専念した。美南との約束の時間に間に合わせなければ。いつものようにファミリーレストランでだらだら喋るというただそれだけの内容であっても、約束は約束だ。
莉子は昔から聞き間違いや勘違いが多かった。父からはよく「話の前後で推測できるだろう」「人の話を聞く時は、しっかり頭を使いなさい」と小言を頂戴したが、すべて聞き流していた。だって母がそうしていたから。「女の子はかわいければいいの」が口癖の母は、莉子が夜遅くまで勉強などしようものなら「肌に悪い」と制止した。かわいければ、なんとかなる。事実なんとかなってきた。これまでの人生。
成績なんかどうでもいいの。耳の奥で聞こえた母の言葉をきっかけに、「あの頃」がいくつも立ちのぼる。ダイニングテーブルに広げっぱなしのランドセルのカタログや夫の大樹がソファーの背に脱ぎ捨てたシャツが、遠くなる。教室のざわめきがすぐそばに迫ってきて、スカートのプリーツが膝をこする感触すらも、なまなましく蘇った。
あの頃。大樹は王様だった。かっこいい男子は他にもたくさんいたけれども、場の空気を支配するのは常に大樹だと決まっていた。そして莉子は、王様から選ばれた女なのだ。