【試し読み】最旬作家 寺地はるな 「希望」を探すエール小説・新潮文庫版『希望のゆくえ』③

感涙! 最旬作家・寺地はるな特集

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弟の希望のぞむが放火犯の疑いがある女と姿を消したらしいと、母から連絡があった。僕は彼と交流があった人物に会いに行ったが、弟の印象はそれぞれまるで異なっていて―。弟はどういう人間だったのか。誰のために生きてきたのか。僕たちの声は、弟に届くのだろうか。それぞれの「希望きぼう」を探す優しいエールに満ちた本作の新潮文庫化を記念して、本日から5日連続で冒頭部分を特別公開いたします。

 家のチャイムが二度鳴った。台所で卵を割っていた母が、あんた出てよ、と顔も上げずに言う。今日は日曜だ。口うるさい母親からあれを手伝え、こっちに来て手を貸せと言われるのはめんどうだが、あいにくなんの予定もない。
「お母さん出てよ」
 スマートフォンに視線を落としたまま答えた。「男性が敬遠するファッション・6選」という記事を読んでいるので、忙しい。
「あー、いやだ」
 大袈裟おおげさなため息をついて、母が菜箸さいばしを置く。あんたはおしりが重いからいまだに彼氏もできないし、結婚もできないのよ、と言ってはならないことを言い捨てて、玄関に向かっていく。
 誰か、男性の話している声がする。どうせなにかの勧誘なのだろう。日曜日の午後にご苦労なことだと思った時、母がスリッパの足音高く戻ってきた。
「ねえ、柳瀬やなせって男の人が来てるけど、知ってる?」
 母の言葉がすべて終わらぬうちに立ち上がった。柳瀬という名の知り合いは、ひとりしかいない。
「ちょっと待って」
 待って待って、とあわただしく髪をでつける。なんで急に家に来たりするんだろう?
 最後に会ったのはもう五年も前だ。高校生の頃つきあっていた、柳瀬くん。卒業前に別れて、その後同窓会で一度会ったきりだ。
 交際中に家に連れてきたことはなかったから、母は当然柳瀬くんを知らない。だいじょうぶなの? あの人誰? まゆをひそめて、ちらちらと玄関をうかがう。
 けっして長くはない廊下を、伏し目がちにゆっくりと歩いていく。三和土たたきに立っていたのは、めがねをかけた長身の男性で、由乃よしのがかつて好きだった柳瀬希望のぞむくんではなかった。
「柳瀬誠実まさみといいます。希望の兄です」
 とつぜんすみません、と頭を下げる。
「ちょっと、いいですか」
 柳瀬くんのお兄さんなる人が視線を廊下の奥に向ける。振り向くと、母がヤモリのように壁にはりついていた。不信感を隠そうともしないふるまいに、むしろ由乃のほうがいたたまれない気持ちになる。
「外に出ましょうか?」