【試し読み】最旬作家 寺地はるな 「希望」を探すエール小説・新潮文庫版『希望のゆくえ』④
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弟の希望が放火犯の疑いがある女と姿を消したらしいと、母から連絡があった。僕は彼と交流があった人物に会いに行ったが、弟の印象はそれぞれまるで異なっていて――。弟はどういう人間だったのか。誰のために生きてきたのか。僕たちの声は、弟に届くのだろうか。それぞれの「希望」を探す優しいエールに満ちた本作の新潮文庫化を記念して、本日から5日連続で冒頭部分を特別公開いたします。
目の前で、伊沢の手が動いている。きれいな手、というのとはすこし違う。肉が厚く、がっしりと太い指。けれども爪は常に清潔に保たれている。そこは好ましい。
資料をまとめて、クリップでとめる。その動作を眺めている由乃に気づいて、伊沢がちょっと笑った。
「ちゃんと手動かしてよ、山田さん」
ねえ。由乃にだけ聞こえるように、一段声を低くして続ける。
「今日、昼、一緒にごはん食べよ」
「はい」
由乃も声をひそめる。会議室には他に誰もいない。営業部の社員である伊沢と、その補佐をしている由乃が昼食をともにするのは、べつに秘密にするようなことでもなんでもない。ことさらに声をひそめるから、秘密になる。秘密の共有は距離を縮める。
会議室の扉が数回、叩かれた。妙にリズミカルな叩きかたでもう誰だかわかる。留学生のジャミルくんだ。手にしたポリ袋をがさがさいわせて入って来た。
「ゴミ、しつれいしマス」
カタカナとひらがなが入り混じったような喋りかたをする。数か月前から雑用をするためのアルバイトとして雇われている。
これからは我が社もグローバル化を図る、と社長が言うたび、社員は陰で嗤う。細々とめんつゆやだしの素をつくっている中小企業だ。社長にとっては留学生をバイトで雇い入れることがグローバル化なのかよとみんなで小馬鹿にしている。
由乃の足もとのゴミ箱を取るために、ジャミルくんが膝を折る。
「かわいいトケイ」
自分の手首を人差し指でとんとんと叩いた。視線が由乃の腕時計に注がれている。
「ありがとう」
ジャミルくんのまつ毛は長くて濃い。まばたきしただけで風がおこりそうだ。
きれい、かわいい、すてきデスネ。ジャミルくんはよく、つたない言葉で女子社員を賞賛する。管理課のパート主婦のあいだでは「王子」と呼ばれている。ほんとに石油王の息子だったりして、などと言う人もいて、バカじゃないかと思う。そんな子が日本で苦学生をやっているわけがない。
ジャミルくんはかつて、バックパックを担いでいろんな国へと旅をしたそうだ。日本に来た時に、本人の言葉を借りると「ミンナやさしくて、ケシキがきれいデ」気に入ってしまい、留学を決意したのだという。そのエピソードもまた、おばさん連中を喜ばせる。日本びいきの外国人、というものが大好きなのだ、あの人たちは。くだらない。
ジャミルくんによる「いろんな国」の話を聞いてみたい。自分のその思いを、誰にも悟られたくない。ジャミルくんに興味を持っていると他人に知られるぐらいなら、おおげさではなく死んだほうがましだった。
「なんか、うれしそうだね」
ジャミルくんが出ていった後、伊沢がぽつりと呟く。