【試し読み】最旬作家・寺地はるな 心の傷が産んだサスペンス『わたしたちに翼はいらない』③
更新
他人を殺す。自分を殺す。どちらにしてもその一歩を踏み出すのは意外とたやすい――。最旬の注目度No.1作家・寺地はるなさんが描く長篇『わたしたちに翼はいらない』は、「生きる」ために必要な、救済と再生をもたらすまでのサスペンス。同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らすシングルマザー・朱音、離婚したくてもできない専業主婦・莉子、自殺を考える独身男性・園田は、いじめ、ママ友マウント、モラハラ夫、母親の支配など心の傷を抱えています。そしてやがて……。本日から5日連続で本作の一部を特別公開いたします。
美南の視線が窓の外に注がれている。年中クラスの鈴音ちゃんのママが自転車を押して歩いていた。隣にはパパの姿もある。
自分で切っているのかな、と思うような野暮ったい髪形をした彼女は、今日も灰色のスーツを着ている。鈴音ちゃんのママがあれ以外のかっこうをしているところを見たことがない。鈴音ちゃんのパパは長身だが、背が高いというよりはひょろ長い感じで、かっこよくはない。ママのほうが極端に背が低いから、大人と子どもみたいに見える。鈴音ちゃんは眉が薄くて、色が白い。他の子にブロックや絵本を奪われても泣きもせず、のっそり立ちつくしているような地味な子。その程度の印象しかない。
「ほんとだ」
自転車のカゴに、鈴音ちゃんのママのものと思われる、くたびれたトートバッグが押しこまれている。彼らはよく保育園の送迎に夫婦そろって現れる。
「あそこのパパって、ひまなのかな」
大樹は、保育園のお迎えなんて一度も行ったことがない。以前、保育参観の後の懇談会で鈴音ちゃんのママは「小児科に連れていくのは夫の担当です」と話していた。家に帰ってそのことを話したら、大樹から「俺は残業あるし、到底無理だね」と一蹴された。
「そうなんじゃない? だって鈴音ちゃんのパパ、仕事できなそうだもん」
頷く美南の唇には、意地の悪い笑みが浮かんでいる。
外見が冴えない。なんか暗い。鈴音ちゃんのママを構成する要素に今日もうひとつ「仕事ができない旦那がいる」が追加された。実際に仕事ができるかどうかは関係ない。そう見えることが重要なのだ。
「そういえば鈴音ちゃんのママさ、このあいだ莉子のことしつこく訊いてきたよ、あたしに。お忙しいかたなんでしょうか、だって」
すごい忙しいと思いますよ、って答えといたよ、と美南が肩をすくめた。
「えー、なんでそんなこと訊くの?」
「さあ。莉子と仲良くなりたいんじゃない?」
その手のことには慣れている。昔からよくあの手の人たちが「仲間に入れて」とでもいうような、じっとりした視線を送ってきた。教室でもそうだったし、短大を出てから就職した会社でもそうだ。いつも気づかないふりをしてきたけれども。
「関係ないけど、鈴音ちゃんのママって雰囲気があの子に似てない? ほら、あの、なんだっけ、中学の時の、ほら」
美南はあーあー、と頷いて紙ナプキンを唇に押し当てた。
「あいつでしょ。松なんとか」
松尾だか松本だか、そんな名字だった気がする。ぺったりと脂っぽい髪をした生徒だった。たれさがった一重まぶたとどっしりした体型で、十代なのに中年のおばさんのようだった。いつも背中を丸めてのっそりと立っていた。雨を降らせる前のどんより重たげな雲のような、陰気な女。大嫌いだった。
「松なんとか、結婚したらしいよ」
「へえ」