そんなことを思い出しながら「ルーフバルコニー」のあるマンションの十五階の外廊下に立っている園田の鼻先を、油でなにかを炒める匂いがかすめる。昼食には遅く、夕食にははやい。こんな微妙な時間帯に料理か、と思ってから、そんなことはどうでもいいじゃないかと思い直す。自分はこれから死ぬのだから、誰がどんな時間に飯を食おうがそんなことはどうでもいい。料理をしているなら外には出てこないだろうから、かえって好都合だ。見とがめられて「住人でもないやつがこんなところでなにをしているのか」と声をかけられる前に、さっさと飛び降りてしまおう。
 首を伸ばして、下の様子をうかがう。郵便局のバイクが停まっているが、配達員の姿はない。あのバイクが去ったら飛び降りよう。
 ここ十数年で似たようなマンションがいくつもできて、もうここは「このあたりにはめずらしい、丈の高い建物」ではなくなった。俗に言う駅近物件というやつで、売りに出るとすぐに買い手がつくマンションだったが、数年前、八階に住んでいた中学生がベランダから飛び降り自殺をして以来、その人気は下降気味だ。販売にかかわる部署ではないが、マンション管理会社に勤めているのでそうした情報は耳に入ってくる。
 マンションの向かいには背の低い、横長の賃貸アパートがある。三階のベランダで洗濯物がはためいているのが見えた。白いTシャツ、白いタオル。地上に視線を落とすと、植え込みには白いつつじが咲き乱れている。こんな清らかな色に囲まれて死ぬのも悪くない。
 八階で死ねたのなら、最上階から飛び降りたら間違いなく死ねるだろう。だから、このマンションを自殺の場所に選んだ。こんな日中に人が死ぬなんて、みんな考えもしないだろう。ここの住人の多くが自分の死体を目にすることになる。かたい地面に叩きつけられ、頭蓋骨ずがいこつが割れ、おびただしい血を流す自分。足はおかしな方向に曲がり、膝から骨が突き出したりしているかもしれない。
 どうして彼は死んだのか。そんなふうに考えてくれる人が、ひとりぐらいはいるのだろうか。でも「どうして」なんて、園田自身にもわかっていない。億単位の借金を背負ったとか女にふられたとか、そういう明確なきっかけがあったわけではない。ただ今朝、目が覚めて「朝食に卵を焼こうかな」とか「雨が降りそうだな」とか思うように自然に「死んでもいいかな」と思いついてしまったのだ。
 自分の人生でもっとも暗く過酷だった時期といえば、やはり中学生時代ということになるだろう。その時ですら「死にたい」とまでは思わなかった。でも今はこんなにも死にたい。状況の過酷さと死にたさが正比例するとは限らないと知った。ひとつ利口になった、と自嘲じちょう気味に唇のはしを上げる。どうせ死ぬのに利口になって何になる?
 どこからか姿を現したヘルメット姿の郵便局員がバイクにまたがり、走り去っていくのを見送る。
 いよいよだ。銀色の手すりを乗り越えようとして、自分の手が震えていることに気がつく。以前は、「死にたい」と「死にたくない」は対極にあって、ぜったいに交わることのない感情なのだと思っていた。でも実際には、背中合わせにぴったりとくっついていて、テンポのはやい音楽に合わせてくるくる踊るように、かわりばんこにその顔をのぞかせる。死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。
 ダンスが一段落したところで園田は手すりから手を離し、乱れた呼吸を整えた。じっとりと汗ばんだ手のひらからはびついた金属と砂ぼこりの臭いがして、同時にここ数週間の記憶が一気に蘇った。電話で聞いた母の声、通帳の残高の数字、冷蔵庫の中の飲みかけの牛乳、友人の「結婚しました」の葉書、そして仕事やそれ以外で会った、たくさんの人の顔が、大急ぎでアルバムのページをめくるように思い出され、唐突に「死んでもいいけど、どうせなら殺してから」という考えが浮かぶ。おれは「死んでもいい人間」かもしれないが、あいつは「死んだほうがいい人間」だから。
 中原大樹なかはらだいき。あいつを殺してから死のう。「死にたい」と「死にたくない」のあいだに、「殺したい」が割りこんできた。
(つづく)


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