「エリックサウス」稲田俊輔 僕がインドカレーにハマったワケ
2023/07/08

成り行きで店を引き継いだら沼にハマった――「エリックサウス」総料理長・稲田俊輔が綴る「初めてのインドカレー」

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書籍の撮影時、スタジオのキッチンで材料やスパイスを準備する筆者。

 南インド料理専門店の総料理長が、書籍『「エリックサウス」稲田俊輔のおいしい理由。インドカレーのきほん、完全レシピ』(世界文化社)の刊行に寄せて、4回連載でインドカレーへの熱い思いを綴ります。

 連載第1回はインドカレーを作ったことのない一人の料理人が、その後、カレーの深い沼に入っていくきっかけとなった出来事を明かします。

 ***

【初めてのインドカレー】

 15年ほど前のこと、僕は成り行きで一軒のインドカレー屋さんを任されることになりました。

 繁華街からは外れた、大きなオフィスビルの一階にあったその店の名前は「エリックカレー」。エリックというのは、その店を始めた時の日本人のシェフがインドカレーを習った、ネパールだかバングラデシュだかの方のお名前だったと後に聞きました。持ち帰りだけの小さな店を、そのシェフが任されて一人で切り盛りし、お昼時だけは主に主婦のパートさんたちがそれを手伝う、という形態でした。

 ところがある日の朝、シェフはその店に来ませんでした。次の日も来ませんでした。連絡は付きません。飲食店ではたまにあることですが、その店にとって致命的だったのは、6種類くらいあったカレーは全てそのシェフが一人で作っていたということです。店にはレシピなどは一切残されていませんでした。ただ、いなくなる前日までに仕込んだカレーだけが、冷蔵庫にパンパンに詰まっていました。

 とりあえずそのカレーだけを売り切ったら閉店するしかない、という状況で、僕はオーナーさんに

「引き継いでもらえませんか」

 と、頼まれたのです。

 とりあえず即、お断りしました。だってこれまでインドカレーなんて作ったことないし、スパイスを専門的に扱ったこともありません。断る以外の選択肢があるでしょうか。その代わり、僕はオーナーさんに提案しました。

「この場所だったら、おにぎり屋さんなんてどうですかね?」

 そして我ながら手回し良く、その日のうちにおにぎり屋さんのメニュー案を考え、おにぎりの具や海苔などの仕入れ先もピックアップし、資料にまとめて翌日、オーナーさんにそれを見せました。

 オーナーさんは黙ってしばらくその資料を見ていました。ところが不意にその顔を上げて、とんでもないことを言い始めます。

「いやー、色々考えたんだけど、やっぱカレー屋がいいんだよね」

 僕は慌てて、レシピも残ってないし、そもそも自分はインドカレーなんてまともに作ったことないし、あのカレーを再現するなんて到底無理です、と昨日に引き続きもう一度伝えました。

 ところがオーナーさんは全く動じる気配はありません。それどころかもっととんでもないことを言い始めました。

「いや、再現しなくったっていいですよ。イナダさんの好きにやってくれたらいい」

 好奇心は猫をも殺す、というイギリスの諺があります。悪いことに、この瞬間、僕の好奇心はむくむくと頭をもたげました。インドカレー、作ったことないならこれから作ればいいじゃん。なんだか面白そうだし。

 僕は気付けばあっさり前言を翻し、無謀にも、

「やります」

 と答えていました。

『好きにやっていい』

 世の中にこれほど魅力的な殺し文句もなかなかありません。とりあえずその時点で残っていたカレーを一通り冷凍して「参考資料」としました。
 
 
 さて冷蔵庫のカレーもすっからかんになり、自動的にお店は一時閉店という運びになりました。特に期限は定めず「しばらくのあいだ休業します」という張り紙を貼った店の奥で、僕は当然の如く途方に暮れていました。やりますとは言ったものの何からどう始めればいいのかもわかりません。とりあえずバックヤードに残された大量のスパイスを片っ端から嗅いでいきました。

 クミンは、いかにもインド、という香りです。

 コリアンダーは特にこれといった強い香りはありませんが、ちょっと爽やかです。

 カルダモンはもっと爽やかですが、こちらはずいぶん強烈です。

 クローブはさらに強烈で、全力で息を吸い込んだことを後悔するレベル。

 他には、シナモン、ナツメグ、胡椒など、どれも知っている香りではありますが、それがどうカレーに結びつくのかさっぱり分かりません。

 その中で唯一の救いがフェヌグリークでした。これだけは、知ってる「カレー粉」の匂いがします。

 もうひとつ、ガラムマサラも、馴染みのあるカレーとはずいぶん違いましたが、確かにこういうカレーも食べたことあるぞ、と思える匂いでした。

 途方に暮れていても仕方がないので、とりあえず目に付いたスパイスをいろいろ混ぜてみました。面白いことに、色々混ぜれば混ぜるほど、それはカレーの匂いになっていきます。なんとかなるかもしれない、と思いました。


書籍では「エリックサウス」のチキンカレーに限りなく近い味が作れるレシピをご紹介。

 カレーやスパイスに関する本も、目につく限りかき集めました。と言っても当時、スパイスから作るカレーの本なんて、大きな本屋さんに行ってもそうそうはありませんでした。今ならたくさんありすぎて逆に選ぶのに悩みそうですが、たかだか15年くらいなのに隔世の感がありますね。

 本を集めたはいいものの、書いてあることは全部まちまちです。今となっては、インドカレーには各地に様々なバリエーションがあるから必然的にそうなるのだ、ということも理解できます。しかし当時はそんなことすらよく分かってませんでしたから、ついつい「ただひとつの正解」を求めてしまっていました。幸い、その正解のひとつのお手本は「研究資料」として冷凍してあります。とりあえず手元のレシピの中から、それに近そうなものをいくつか探し出して比較検討するうちに、肉や玉ねぎ、トマトなどの比率や調理工程に、一定の法則のようなものがあることもわかりました。

 スパイスの配合にも、どうやら法則やパターンのようなものがありそうでした。それを元に、僕は日がな一日、様々な比率でスパイスを混ぜ合わせては匂いを嗅ぐ、ということを繰り返しました。
 
 
 当時のスタッフが、後にこんなことを言ってました。

「たまに暗い店の奥を覗くとイナダさんがいて、スパイスの山に埋もれて、ひたすら調合して匂いを嗅いで、たまにニヤーッと笑って……あれマッドサイエンティストみたいで相当ブキミでしたよ」

 ブキミは失礼ですが、少なくとも覗かれているのにも気付かないくらいには没頭していました。そんな毎日が続く中、最初に試作したチキンカレーは、思わず「グオーッ」とブキミな声を上げてしまうくらいおいしくできました。ただしそれは、マッドサイエンティストの如き研究の成果というより、むしろいくつかの偶然が重なった幸運だったんじゃないか、と今となっては思います。

 しかし偶然だろうとなんだろうと、僕はますます夢中になりました。のめり込んだと言っていいと思います。チキンカレー以外にもいくつかのカレーを(何度か大失敗もしながら)作り上げ、いつしか店は、無事再開する運びとなりました。カレーのメニューを書き換えた以外は、看板から何からそのままです。おいしいカレーさえできたら、後のことは実際どうでも良かったのです。

 ***

稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)
南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長。飲料メーカー勤務を経て、友人とともに「円相フードサービス」を設立。和食をはじめ、さまざまなジャンルの飲食店を手掛ける。2011年、東京駅八重洲地下街に「エリックサウス」を開店。著書に『ミニマル料理』(柴田書店)、『個性を極めて使いこなす スパイス完全ガイド』(西東社)、『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『おいしいもので できている』(リトルモア)、『キッチンが呼んでる!』(小学館)など多数。2023年7月1日、世界文化社より『「エリックサウス」稲田俊輔のおいしい理由。インドカレーのきほん、完全レシピ』を上梓。

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提供:世界文化社

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