橋爪大三郎は『憲法の無意識』を読んで未踏のフロンティアを進む柄谷行人を見た

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憲法の無意識

『憲法の無意識』

著者
柄谷 行人 [著]
出版社
岩波書店
ジャンル
社会科学/社会科学総記
ISBN
9784004316008
発売日
2016/04/22
価格
880円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

橋爪大三郎は『憲法の無意識』を読んで未踏のフロンティアを進む柄谷行人を見た

[レビュアー] 橋爪大三郎(社会学者)

橋爪大三郎
橋爪大三郎

 憲法第九条は、押しつけられたからこそ永続する。逆説的なこの秘密を、柄谷氏は「無意識」として解き明かす。漂流する日本の深層を診断する、力強い補助線である。
 文化や社会秩序は、欲望を抑圧することで生まれる。フロイトの創始した精神分析だ。しかし第一次世界大戦から帰還した兵士の悪夢を診断するうち、彼は考えを変える。兵士は自分の攻撃衝動を処罰しているのだ。欲望よりもっと根底に、死の衝動がある。戦争はその発露である。それを処罰し抑止するのも、死の衝動にほかならない。ここに平和を創出するカギがある。そう、柄谷氏は読解する。
 これをヒントに、日本国憲法はどうみえるか。もしもそれが自由な選択だったなら、状況が変わればかなぐり捨てられたろう。アメリカに無理やり押しつけられたので、かえって強く日本国民をとらえた。護憲派が九条を守った、ではない。九条こそ護憲派を守った、と柄谷氏は言う。
 もうひとつ本書の重要な切り口は、世界資本主義だ。冷戦終了で第二世界が消滅、第三世界もなくなった。製造業はつぎつぎ新興工業国に移転し、やむなく先進国は金融に特化した。アメリカは覇権国からなかばずり落ち、先進国は新自由主義(内実は帝国主義)政策に駆り立てられる。労働配分率は低下し、福祉が切り捨てられ、中産階級は解体、社会不安や右傾化が進む。六○年または一二○年の長期波動と連動して、世界資本主義は、過去と類似したスパイラルを繰り返すのである。
 だからこそカントの平和論を、柄谷氏は高く評価する。カントははじめ、主権国家が連合すれば平和が実現できると楽観していた。だがその後考えを深化させ、もっとしたたかに、やがて世界共和国が実現するとしても、《それをもたらすのは…人間本性(自然)の「非社交的社交性」、いいかえれば、戦争である》と考えた。自然とは言うならば、無意識だ。平和は、覇権国が武力を背景に意図的に実現するのでなく、国際社会の争乱を通じ「自然の叡知」により実現に向かうのだと。
 パリ不戦条約、国際連盟、国際連合はそうした学習の成果だ。日本国憲法第九条も国際社会が、戦争をもたらした衝動を自責し抑止しようとする無意識の産物だ。歴史の未来はこちらにある、と指し示す道標である。日本国民は第九条にコミットし続けることで、国際政治のリアリズムを超えたほんもののリアリズムを追求できるのである。
 マルクス主義が凋落し、入れ替わりにボストモダンが勃興する時期に、柄谷氏は思索を始めた。いま、交換様式A~Dの類型を下敷きに、大柄な歴史の図式を展開してみせている。マルクス主義は、世界のリアルな土台は経済的下部構造だとした。ポストモダンは、どんなリアルな土台も想定しなかった。柄谷氏は時代の意匠にすぎないポストモダンの思潮の根底に、新たな土台を据えようとしている。世界的な視野で、未踏のフロンティアを進む、勇気ある思索である。もっと読まれ、もっと語られてよい、重要な思想家のひとりであろう。

太田出版 ケトル
vol.34 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

太田出版

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