『エスケープ・トレイン』
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すべては空気抵抗なのである
[レビュアー] 熊谷達也(作家)
ケーブルテレビのスポーツチャンネルで「ツール・ド・フランス」のライブ中継を観ているときのことだった。首をかしげながら妻が言った。
「ねえ、なんで最初から一生懸命走らないの?」
そうなのである。自転車ロードレースの中継を観ていて、ロードレースファン以外のたいていの人が抱く疑問が、まさにそれ。競技の特性を知っている人間が観ていても途中で退屈になってしまうくらい、目立った動きのない時間帯が、一時間はおろか二時間も三時間も続くことがざら(コースのレイアウトにもよるが)なのが自転車ロードレースなのだ。
なぜそうなるのか? 実は、その答えはものすごく単純だ。
空気抵抗。
それがすべてなのである。
たとえば、無風の平地を時速三十五キロメートルでペダルを漕いで(一般人としてはかなりの健脚の持ち主)いたとする。これは風速十メートルの強風に逆らっているのとほぼ一緒。ところが、自分の前を誰かが走って風よけになってくれるとかなり楽になる。ましてや、何十台もの、時には百台を超える大きな集団(ロードレース用語でプロトンと言う)に埋もれてしまうと、ほぼ無風状態になる。私のような還暦に達したライダーでも、楽勝で時速四十キロ以上のハイペースで走れてしまうのを、趣味が昂じてレースに出るようになって、自分の身体で知ることになった。しかも、現代のプロのロードレースは、さまざまな作戦や駆け引きが必要なチーム戦となっている。けれど勝者はたった一人。そこがいい。エースの勝利のために自らが犠牲(風よけ)になって献身的に走るアシスト選手がいなければ、エースは勝てない。そんな人間ドラマが詰まった魅力的な世界を、一人でも多くの読者にリアルに届けたい。そう願って(実際には自分が楽しみながら)書いたのが『エスケープ・トレイン』なのである。