<書評>『小さき者たちの』松村圭一郎 著

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小さき者たちの

『小さき者たちの』

著者
松村圭一郎 [著]
出版社
ミシマ社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784909394811
発売日
2023/01/20
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

<書評>『小さき者たちの』松村圭一郎 著

[レビュアー] ドリアン助川(明治学院大学国際学部教授、作家・歌手)

◆苦悶する「もう一方の世界」

 私たちが歴史だと教えられてきたものは、包装紙の模様に過ぎなかったのではないか。王侯や政治家、戦争や時代の名をいくら覚えたところで、人間の本当の営みの記録である箱の中身はなかなか見えてこない。

 人類学者の松村圭一郎は、故郷「熊本」が詰まった箱のふたを開けた。歴史の教科書にはめったに登場しない、圧倒的多数の小さき者たち、生きるに苦悶(くもん)した人々の血肉の言葉をいくつもの文献から引きずりだした。そこから立ち上がる歴史と世界をあらためて自己に問い直したのがこの本の骨子だ。

 惨めになるという思いから水俣病であることを娘に打ち明けられない母の言葉がある。やがて娘も発病するが、母はそれでも隠そうとする。

 極貧に苦しみ、家族を水俣病で失った男の言葉がある。何度排除されても、彼は水銀を垂れ流したチッソ本社の前で座りこむ。相対する者が人間として向かい合うこと、その一点を求めて。

 水俣を撮ろうとし、患者家族からの非難の言葉に大きな挫折を味わった映画監督の言葉がある。しかし、彼は撮り続ける。胎児性患者の姿に天を恨むほどの衝撃を受け、同時に、その子どもたちに愛を求めてやまない「ひと」を感じながら。

 著者の松村はエチオピアの農村が研究対象であり、二十年間にわたって現地に通い詰めた。出会うのは、重労働に明け暮れ、食糧配給の列に並ぶ小さき者たちの姿だ。

 ただ、この本ではエチオピアの人々の暮らしについてはほとんど語られない。水俣や天草での言葉が綴(つづ)られる合間に、キャプションつきの写真が登場するのみだが、この共演は実に雄弁だ。

 肌の色や顔かたちが違っても、人間の眼差(まなざ)しは変わらないからだ。もがき苦しみながらも生きることをつかもうとする人々の目が、箱の底にはびっしりと並んでいる。

 潤う人々を支えるために、むしり取られる一方の世界がある。著者の懊悩(おうのう)は、私たちもまた箱を抱える当事者であることを気づかせる。

(ミシマ社・1980円)

1975年生まれ。岡山大准教授・文化人類学。著書『くらしのアナキズム』など。

◆もう1冊

緒方正人著、辻信一編著『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(ゆっくり小文庫)

中日新聞 東京新聞
2023年3月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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