リバースエンジニアリングとしてのメディア論

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これからのメディア論

『これからのメディア論』

著者
大久保 遼 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/社会
ISBN
9784641200005
発売日
2023/01/20
価格
2,530円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

リバースエンジニアリングとしてのメディア論

[レビュアー] 北田暁大(東京大学大学院情報学環教授)

 コロナ禍の禍々しい空気が少しだけ薄らいできたように感じられつつあった今年2月、私は生まれて初めて患者として入院生活を過ごしていた。もちろん看病や見舞いのため病院で夜を過ごしたことは幾度かあったが、患者として行動を制限されつつ病院で数日間過ごすというのは間違いなく初めての体験であった。この体験は、本来は生と死を見つめるというきわめて人間的な課題へと繋げられるべき相応の深刻さがあったはずなのだが、残念ながらそこまでの実存性と切実さが私には欠けていて、ふと気づくと、出生直後を除き生まれて初めての入院は、10年ほど完全に置いてけぼりをくらっていたスマートフォン活用法の短期集中学習の場となっていた。

 PCやタブレットを用いてたまりにたまったメール返信や原稿執筆に専念するぞという計画が「Wifi飛んでませんよ」という看護師さんの冷徹な一言で頓挫すると、スマホの入力が苦手で仕方のない私は潔く仕事を諦め、ともかくもそれほど費用をかけずにスマホでできそうな――しかしこれまでことごとくPCや機能別の媒体で行っていた――読書・音楽聴取・業務対応・作画・工程表作成・調査データ解析・街めぐり(?)などの情報処理に専心していた。わかってはいたけれども、これほど多くの事柄がこのちっぽけな「ネット接続型携帯電話」でできるのか、と驚かずにはいられなかった。知識では知っていたけれども実際に体感するとやはり違う、というのとも少し違う。知識では「結果」を知っていたけれども、本来10年ぐらいのスパンで少しずつ無意識のうちに習熟していくべき事柄を、一週間程度で一挙にも集中的に確認していく作業。それはちょうど、迷ってようやくたどり着いた目的地で、地図を片手に迷ってきた道のりを一つ一つたどり返すような営為、「メイキング」のドキュメンタリーを作成し鑑賞するような経験を思わせるものであった。

 私たちの日常を成り立たせる様々な行為と体験とが、自らの個人情報と履歴情報と引き換えに、一つの「電子箱」を用いた実践のなかで可能となり制限される経験。音楽を聴く、マンガや本、雑誌を読む、古書を検索する、情報を発信・受信する、映像を見る・作る・編集する、様々な事柄を測定・計算する、健康を数値化したり映像化したりして管理する、管理する自分を再帰的に管理する。それらの履歴が即座にネットと常時結びついた「箱」へとフィードバックされ、次々と「私向け」の情報が最適化されたうえでサジェストされる。そのアルゴリズムから導き出されたリコメンドをもとに、私は再度自己情報をネットに還流し、自らの情報の縄張りを再生産していく。なんのことはない、病室で半ば軟禁状態に置かれた私は、20年、いや30年ぐらい前からずっといわれている、ごく標準的な「ポスト・マスメディア」的な経験の構造を、遡及的に追体験することになったのである。ようやく「スマホのない生活をもう想像することができない」という凡庸な実感を持つことができるようになったわけだ。

 と、ずいぶん冗長な前口上を記してきたが、これは、評者が、大久保遼『これからのメディア論』を読む前提となる体験、この本が読者にとっての与件であると考えている「標準的なメディア体験」にようやく漸近することができた(気がする)ということ、そしてそのことによって、この本が私のような「マスメディア世代」の尻尾に位置する人間にとってはやや奇異にも思える――しかしそれは現代の若者にとって奇異でも何でもない――メディア史の語り方を提示していることに気づかされた、ということをいうために書き留めさせていただいた。まごうことなく、メディア論に入門する若い初学者向けの教科書として書かれた大久保の著書はしかし、私にとっては、きわめて挑戦的なメディア史の試みと映った。近代的なメディアの機能分化がさほど意味をなさなくなってしまっているように見える現下の「超メディア」的状況を、歴史の到達点ではなく、歴史認識を開始するための端緒として設定するメディア史の可能性を差し出すプロジェクトとして、である。

 『これからのメディア論』は、近現代メディアの歴史的変遷を正確に描き出すという意味で「教科書である」のではなく、スマホ使用によって隠喩的に理解されるような現代的なメディア体験のあり方に一定のリアリティを持つ読者に向けて、その体験を生み出してきた歴史的経路を遡行的に、つまり過去と現在との対話・折衝を通じて追体験させる、という意味でいわば体感型のメディア史習熟メディアなのである。大久保の本を、短期集中スマホ訓練に勤しむ病床で読みながら、私はそんな印象を持つこととなったわけである。

   *

 『これからのメディア論』で特徴的なのは、本の冒頭から終章に至るまで、ネット・デジタル媒体にかんする現代的なイシューがたえず、異なる相貌をとりつつも繰り返し論及され続けるということだ。

 第2章「新しいメディア研究の潮流」には、マスメディアに照準する古典的な議論の系譜をたどりながら、メディア論と呼ばれる思潮の問題設定を読み解く第1章「メディア論とは何か」を受けたものなので、なかば当然のように「ソフトウェア」「リコメンデーション」「アルゴリズム」「クラウド」といった言葉が登場してくるが、それはたんに「新しいメディア論を紹介する」ために持ち出されているのではなく、2023年の現在においてメディア史を構想するさいに、「一応の到達点」といえる複合的なメディア環境を描き出すための道具立てを提示する部分である。この道具立てが必要になった現状を大まかにとらえたうえで、その現状が生み出された過去・歴史をたどり返していく本書の指針が示される。「メディア論の形成過程に立ち戻り、その継承と批判の試みを振り返ったうえで、更新と再設計の可能性を探」るというのは(『これからのメディア論』3頁)、1章や2章に限られない、本書全体を貫く方法論的意志である。

 第3章以降の各論は、メディアの発展史的に、つまり各々のメディアの登場の時系列順序にそくして描かれるのではなく、「写真」「映画」「音楽」「ライブ」「都市」「映像文化」「プラットフォーム」「移動体通信」といった領域を引き受ける形で編成され、それぞれの章に、現代と過去とが書き込まれる。章の順序は、時系列的・因果的にではなく、「音楽についてメディアを考えていくとライブとその媒体との関係にたどり着く」といった具合に、いわば論理的に編成されたものである。Youtubeと映画史、シンセサイザーとザ・ベストテン、ストリーミングとライブ、情報都市と広告都市、映画・映像とシリコンバレー……といった具合に、主題=領域ごとに「現在(到達点)」を確認したうえで、その現在に至る道筋を、偶然的ともいえる過去の行程をたどり返すことによって再現し、現在の体験を支える史層の厚みを読者に体感させる――こうした大久保の試みを、フリードリヒ・キットラーが好んだメタファーを使って、リバースエンジニアリング(解体再構成の工学)としてのメディア史と表現することができるかもしれない。

 歴史は、「現在」を解体し、「現在」にまで至る試行錯誤の過程をたどり返すことによってはじめて十全たる意味で歴史たることができる。現在と過去の痕跡との対話としてのメディア史である。

 こうした歴史記述の方法は、(1)書籍・印刷技術を大きな参照点としたメディア論の構図、つまり、文字の文化/声の文化といった区分、非対面/対面、マスメディア/パーソナルメディアといった実定的区分を相対化することができる。理念型化されたデジタルメディアにおいては、視覚的/聴覚的/触覚的データ……というように、対応する感覚器官によってデータの種類を分別することはそれほど意味をなさない。そうしたデータの感覚的分類を無効化するメディア環境(現在)と過去のメディア環境とを交差させ、リバースエンジニアリングとしての歴史叙述を展開していくということは、直感的な感覚によるメディア機能分類を議論の前提として使うことができない、ということである。文字の文化/声の文化といった区分、マスメディア/パーソナルメディア、通信/放送といった伝統的なメディア論の区別をあてにして議論を進めるわけにはいかない。メディアやメディアが果たす機能を人間の感覚によって類別しうるという考え方自体、相当に周到な説明を要する事柄なわけだが、リバースエンジニアリングとしてのメディア史は、そうした挙証責任を負わない。これは方法論的に大きな認識利得である。

 しかし一方で、(2)そうした歴史記述の方法は、過去の事象の偶然性、他でありえた可能性についての経験主義的な意識を欠いてしまうと、歴史の端緒の未分化(メディアの/による機能分化が生じる以前の状態)と、終末の統合(現在や未来における諸機能の統合・融合)とが識別不可能となる歴史神学――というと神学に失礼なのだが――となってしまうという危険を伴う。鮮やかにマクルーハン的なメディア論を批判し、まさにリバースエンジニアリングとしてのメディア史のプロジェクトを展開していたキットラーが、晩年に『音楽と数学』などの著書で、19世紀、中世どころか古代ギリシャにまで遡行してしまったのは、そうした危険に抗いがたい魅力があったことの証左ともいえるのだが。

 メディア史の営みを、そうした歴史神学というか予定調和的な弁証法にすることなく、(1)の利点を最大限活かしていくために必要なことは、「一応のprima facie」到達点の「一応性」を経験的な水準で丁寧にとらえ、それがどのようなその場その場の環境課題に応じるものだったのかを遡行的に、徹底して経験的に分析していくことである。弁証法というのであれば、本書にもたびたび登場するヴァルター・ベンヤミンの「静止状態にある弁証法」に近い。局面ごとの環境的課題と、ありえたかもしれない他の選択肢の様態、結果的に選択された道筋の偶然性を、余すことなく書き留めていくこと。その課題を引き受けることによってのみ、メディア論は、歴史神学ならぬエンジニアリングとなる。大久保がやっているのはそうしたとてもデリケートな作業だ。

 吉見俊哉や水越伸が目指した「他でありえた可能性」の指し示しとしてのメディア史という課題は、「機能」「分野」「領域」を慎重に横断し、かつ時系列的な順序ではなく、その順序が可能となっている論理の成り行き(順序)を描き出していくという形で、大久保のこの入門書によって果たされたといえるかもしれない。たしかに入門書ではあるが、メディア「史」の方法についての挑戦的な書ともなっている。大久保のこれまでの論考のなかでももっとも冒険的な作品といえるだろう。

 入院時の短期集中であるがゆえに、知識としては知らないではない事柄で、時系列的には10年ほどの経過が関係している(であるがゆえに特に連接そのものを意識してとらえる必要がない)ようなことが、短時間の間に組み立てられる。それは大急ぎでリバースエンジニアリングを追体験しているようなものだった。最初の2章はまさに、私が吉見や水越に学んできた30年間ほどのメディア論の歴史を超高速で再生するものであったし、3章以降の各論は経路的に異なると見えるメディアごとのリバースエンジニアリングである。

 より詳細なデータと分析が付加され、大久保の本がギデンズの『社会学』のような厚みのある大著となっていたら……と想像したくなるのは研究者の性というものだが、それは違うのかもしれない。本書の分量、つまりは読者に可能にするスピードこそが、有意義なリバースエンジニアリングの追体験を担保しているのであって、速度を落としてしまえば、それはこの本自体がメディアとして提示する重要なメッセージと効果は鈍化せざるをえないだろう。読者にメディア史記述の追体験を与える、そういう意味で本書はまさに真の意味での大学の「教科書」、研究に裏打ちされた/研究の再生産を齎すテキストなのである。

有斐閣 書斎の窓
2023年7月号(No.688) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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