古典古代から20世紀までの西洋政治思想史を描き切った野心的な試み

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憲法からよむ政治思想史

『憲法からよむ政治思想史』

著者
髙山 裕二 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/政治-含む国防軍事
ISBN
9784641149410
発売日
2022/09/21
価格
2,310円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

古典古代から20世紀までの西洋政治思想史を描き切った野心的な試み

[レビュアー] 石川健治(東京大学法学部教授)

 その昔、木下杢太郎の研究家として知られる新田義之教授から、ドイツ語の手ほどきを受けたとき、現在は租税法学者になっている級友が、「なにか『豆単』のようなものはないですか?」と質問をした。そこで紹介されたのが、『英語から覚えるドイツ語単語』といった類の小著であった。『英語から覚えるドイツ語単語』が英語についての本ではないように、ここで論評する高山裕二『憲法からよむ政治思想史』(欧文タイトルは A History of Modern Political Thought)もまた、憲法についての本ではない。「プロローグ」「第I部 内戦の時代(16・17世紀)」「第II部 イングランドの世紀(18世紀)」「第III部 フランス革命の時代(18世紀)」「第IV部 〈民主化〉の時代(19世紀)」「エピローグ」という堂々たる六部構成で、古典古代から20世紀までの西洋政治思想を描き切った、野心的な政治思想史の試みである。

1 二つの達成

 本書が、とにかく読んで面白く、ためになる本になっている、ということ自体が、ひとつの達成として評価されるべきであろう。ふんだんに引用されるテクストの取捨選択に、ひねりが効いているのはもちろんのこと、個々の思想家の伝記的な紹介についても、イメージ豊かで発見を伴うものになるよう、工夫されている。伝統的な捉え方をおさえつつも、最新の研究動向を意識した読み直しの作業を意欲的に行い、それを各章ごとの個性的で魅力的な読書案内につなげて、読者の読書意欲を触発している。

 見落としてはならない本書の工夫の一つは、政治理論との連絡をつける五つのコラムが用意されていることで、さりげないが著者の方法的自覚の反映である。全巻を通して日本国憲法の条文が参照されるのも、同様にして考え抜かれた一個の仕掛けであって、この形に至るまでには、著者の教育実践における試行錯誤が、幾度となく繰り返されたことは想像に難くない。そして、その努力は、再び西洋政治思想と戦後日本憲法学との対話の回路を開く、という副産物をもたらした観がある。これが本書のもうひとつの達成である。

 元来、ある政治思想文献が古典性を獲得するということは、それが産出されたコンテクストを離れて、テクストが意味論的な自律性を獲得することと、ほぼ同義であった。このことを踏まえた1948年の記念碑的講演としては、清宮四郎「日本国憲法とロックの政治思想」(樋口陽一編『憲法と国家の理論』[講談社学術文庫、2021年]所収)がある。しかし、古典的テクストといえども、それが投入された実際の文脈において初めて意味が発生する、と考えたケンブリッジ学派の影響で、日本の西洋政治思想研究は「外国研究」として醇化されていき、それまで気軽に言及してきた西洋古典に、憲法学者の手が届かなくなった。

 たとえば、明治以来翻訳が一冊もなく、受容の遅れ自体が「一つの問題を示している」感のあったジョン・ロックの最初の訳者は、京城帝国大学で清宮の同僚だった憲法学者・鵜飼信成であり、戦時中に完成していた訳稿が『市民政府論』(岩波文庫、1968年)として公刊されたのであったが、「civilをpoliticalの同義語として使い、governmentに一八世紀以降に一般化する統治機構の意味を与えなかった」ロックに対する鵜飼の無理解を批判した、ケンブリッジ学派の加藤節の訳業によって、上書きされることになったのである(『統治二論』[岩波文庫、2010年])。

 こうした研究動向は、個別の西洋政治思想研究者にとっても、通史の執筆を難しくした(ポスト・ケンブリッジ学派の方法論議は、外野からみている限り興味津々であるが、ここでは立ち入らない)。そのうえ、市場の論理が大学にも浸潤するに及んで、「古典に学んで」役立てるという教養主義を無効化したことが、「政治学史」「西洋政治思想史」の講座担当者を苦境に追い込んでいたはずである。そのなかで著者が出した回答が、立憲主義のプラクシスに目線をおろすことであった。

 憲法とは古典的な政治観念の星座であり、そうした諸観念の体系を現実政治に再現すべく、いわば古典劇のテクストとして書き下ろされたのが、日本国憲法を含む各国の憲法典である。これを踏まえて繰り返し再演される立憲政治の実践には、個々の「役者」の主観を超えた水準で、古典的な観念体系の反映がみられるはずだからである。

 それだけに、諸々の観念の布置連関について相応の知識をもたない限り、政治家にこれをもてあそぶ資格はない。加えて、必ずしも合理的ではなく、しばしば他律的な人々がおりなす人間社会において、「モノとは異なる人間の尊厳」を保障する政治と制度を構想するためには、制度改革を声高に叫ぶだけの幾何学的精神のみならず、パスカルのいう「繊細の精神」が必要である。

 この点、パンデミックの時代に育ち、近代消費社会の入り口で、理念型としての近代人を造型したダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』に始まり、「生産性」の論理が優位する近代産業主義の帰結を描いたオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』で終わる本書は、個々の政治思想の検討に際しても、既存の図式的な理解では捨象されてきた人間的な余剰に対して、可能な限り光を当てている点が魅力である。

 そうした本書の見事な筆致を前にしては、「近代憲法における政教分離は、政治と宗教の分離ではなく、『政権』(=国家)と『教権』(=教会)の制度的な分離を指すのではないか」、というような野暮は、いいたくない。むしろ、誰よりもまず憲法研究者が、本書を精読して、自らのクオリティー・コントロールを行う必要があるだろう。同業者に先駆けて、本書に取り組む機会を得た評者自身、大いに得るところがあった。

2 「第三の政治」と「人間の尊厳」

 欧文タイトルと章立てが示す通りに、叙述の重点は初期近代以降におかれているが、ポリス(公共の福祉)のための政治という「第一の政治」観念を克服して、「政治固有の論理」としての〈力〉が発見されるまでの歴史を、アウグスティヌスとマキャヴェリを楕円の中心として、古典古代から一筆書きで描く講義冒頭の骨太の展開は、迫力がある。他方で、『エセー』で知られるポリティーク派のモンテーニュによって、〈力〉の衝突としての政治(「第二の政治」)にかわる、「第三の政治」としての「妥協の政治」の主題が設定される。

 モンテーニュは、判断における特権的な場としての〈私〉〈内面〉の領域を発見する一方で、非合理な情念の衝突を調停するための政治的寛容論を通じて、ヴォルテールや(ひょっとすると)ロックよりも、政治思想史上重要な役割を果たした可能性がある。価値観を異にする異質な他者を、抹殺・殲滅するまで已まない「第二の政治」に「政治」を名称独占させず、それぞれの尊厳を承認しあい平和共存する「第三の政治」の可能性に道を拓いたのである。立憲主義は、この「第三の政治」に基盤をおき、「第二の政治」に対抗してきたのである。

 ペインとアーレントを梃子にして、「ヨーロッパの制限君主政由来のものとは異なる」アメリカ立憲主義の「積極的性質」に光を当てているわりには、本書における共和主義の叙述が、権力分立論に偏していて、政治社会の「構成」という本来の積極面において、弱いように見えるのは不思議であるが、それもまた、ローマ共和政における「第一の政治」との連関が断ち切られていることに関係しよう。

 こうした問題設定を土台として、近代的な「政治」像と「人間」像に向かう問題史的な展開が、常にオルタナティヴを意識しつつ複線的に描かれてゆく。全体を通して本書の叙述が、光も翳もある人間精神のドラマとして読まれ得るのは、「それ自身尊ぶべきもの(Wurde)」〔uにウムラウト付き〕としての「人間の尊厳」の観念に、著者が一貫して照準を合わせているからである。本来はフランス政治思想が専門の著者であるが、(西)ドイツのボン基本法一条に現れた「人間の尊厳(Menschenwurde)」〔uにウムラウト付き〕の観念と、その形容詞形でもある「人間たるに値する(menschenwurdig)」〔uにウムラウト付き〕(ワイマール憲法151条1項)という、二つのドイツ語を常に意識しながら本書を執筆している。

 そのことは、後者における「人間たるに値する生活」の文言を、「人間の尊厳ある生活」と言い換えていることからも明らかである(146頁)。要するに、ボン基本法における「人間の尊厳」観念を、神との関係性において人間の「位格」を論ずるキリスト教的文脈よりは、ワイマール憲法の社会国家原理に結びつけようというわけである。この姿勢は、「政治」観念に代わって浮上した「労働」観念と、「労働」社会における「人間らしさ(=人間の尊厳)」を追求するエピローグにおいて、マルクスの疎外論を階級闘争史観と切り離して論じていることとも、呼応している。

 ここにみられる本書の特徴が、「幸福」観念の発見者の一人でもあるルソーを――直接民主政論ではなく――この文脈において論じさせた。そして、その主張を、ルソーの影響下にあるカントの実践哲学へ――とりわけ「人間の尊厳」論(と平和論)へと――著者はつなげてゆく。市場原理を発見したスコットランド啓蒙に対しては、ヒュームにせよスミスにせよ、「徳」や「公正」の原理による歯止めをもっていた点が指摘される。「東側」世界が崩壊して以降、最も古典に近い位置にあったかもしれない『自由論』のJ・S・ミルについても、「個」の尊厳を主題化した以上に、それを応用して「両性」の尊厳を説いた、『女性の隷従』の著者として論じられる。ジャコバン派のロベスピエールが、「人間たるに値する生活」を――貧者の部分利益としてでなく社会全体の利益の観点から――「権利」として定式化した、最初の人物として言及されるのも、この一環である。

 著者がこれまで最も親しんできたトクヴィルは、そうしたロベスピエールの恐怖政治とナポレオンの専制政治に対抗して登場した自由主義者たちの一員であったが、特に本書においては、ミルに継承された「多数者の専制」批判以上に、その民主主義論がクローズアップされている。無力化した民衆の政治的無関心(アパシー)を、民主主義にとっての危険な徴候として捉えたトクヴィルの指摘は、決して他人事ではないからである。この点で、「地方自治」は、アパシーを克服する政治教育の場であり、そこへの参加を通じて、「暴力の観念」に対抗する「権利の観念」が人々に植え付けられる。そうした権利の観念に基づき「人民の情念のブレーキ役」を果たす裁判所においても、アメリカでは陪審制がアパシーの防止に寄与している側面が重視されている。

 これに対し、戦前の日本では「神聖不可侵」の略語として「尊厳」が用いられた天皇については、「威厳」の語が用いた説明がなされている。本書は、内閣の「執政権」に言及する文脈でバジョットを論じているが、憲政をdignified partとしての国王とefficient partとしての内閣に分析した彼の『英国憲政論』に関連して、前者を「威厳を持った部分」、後者を「機能する部分」と訳し分けているところが興味をひく。戦前の日本では、「天皇の尊厳」との対比で、カントの翻訳では「人間の威厳」とされることが多かったが、本書では逆転して、「名誉」の源泉としての国王(天皇)のdignityの方が、「威厳」と訳されたわけである。

3 理性の公的=公共的使用に向けて

 本書の執筆動機にもなっているらしい2014年から15年にかけての出来事の渦中にあって、評者のもとにも、「立憲主義」について簡単に解説してほしい、という取材依頼が相次いだが、そのつど、「それは難しい。もし簡単に解説する人がいたら、その人はインチキだと思ってください」と答えて、煙に巻いていたものである。

 「立憲主義」のような対抗言説は、誰(何)を対手にするかという認識枠組によって規定されるので、その認識枠組の形成過程を含めて経路依存性を免れることができず、特定の文脈つきでしか説明できない。それを度外視して、一般的な定義を与えようとすれば、それは無内容になるからである。

 この点、本書の場合、1頁目から登場する「立憲主義」について、最後まで定義が与えられないまま、おわっている。つまり、この本は信頼できる、ということだ。

 もちろん、メリハリのある意欲的な書物である分、「人間の尊厳」概念の整理ひとつとっても明らかなように、本書自体あるいは著者自身が、経路依存性から自由ではない。たとえば「権力の拘束」よりも「権力の構成」を、という著者が不用意に繰り出す立憲主義言説に関しても、ケンブリッジ学派ふうにいえば、本書が投じられる言語的慣習(convention)において、それが遂行的発話としてどういう意味をもつのか、著者が果たしてそれに自覚的であるのか無自覚なのか、については気になるところがある。

 そのこととの関わりで、ホッブズの主権概念とその代表者(担い手)に関する鮮やかな叙述の陰に、元来は国民のみを念頭においていた憲法制定権力概念が、君主を担い手としても語られるに至ったプロセスが、隠れてしまった。アーレントに依存してアメリカ立憲主義の積極的側面を強調した反面で、フランス復古王政において自由主義・立憲主義を語ったシャトーブリアンの立憲君主制言説が、コラム4に埋没している。日本国憲法における「信託」概念の二重構造も(前文、97条)、ロックとバークのそれぞれの文脈で、叙述の行間に姿を没した。これらは、本来、憲法制定権力の(権)力的契機と正統性(正当性)的契機が語られた際、念頭におかれていた事情である。そうしたコンテクスト抜きに、本書が繰り返し権力的契機と正当性的契機を論じていることについても、評者は小さな懸念を感じないではない。

 けれども、著者がアーレントのカント理解を踏まえて読者に訴えているのは、まず何よりも、「人間が正しく考えること=啓蒙」のために、「人間の相互理解を結ぶ思考と能力」としての「理性の『公的』使用」を行うことの重要性である。本書の数限りない工夫は、この一点に向けられたものであり、著者が引用する次のカントの言葉は、本書の姿勢を何より雄弁に物語っていよう。「他人と共同して考えることがなければ、われわれはどれだけのことを、どれほどの正しさをもって考えるであろうか」。政治的アパシーを指摘される若い世代の読者が、正しい意味での「啓蒙」を目的として書かれた本書と共に思考する未来を、評者は心から期待してやまない。

有斐閣 書斎の窓
2023年7月号(No.688) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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