「親の死に目に会えず」「修学旅行も文化祭も中止」 コロナ禍の「不要不急」は行き過ぎでは?の問いに哲学はどう答えるか

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目的への抵抗

『目的への抵抗』

著者
國分 功一郎 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
哲学・宗教・心理学/哲学
ISBN
9784106109911
発売日
2023/04/17
価格
858円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「親の死に目に会えず」「修学旅行も文化祭も中止」 コロナ禍の「不要不急」は行き過ぎでは?の問いに哲学はどう答えるか

[レビュアー] 物江潤(作家)


十代の思い出となるイベントが「我慢しなさい」の一言で潰された(写真はイメージ)

 新型コロナが5類相当に移行し、世の中のイベントや会食、旅行などもコロナ前に戻りつつある。

 しかし、コロナ禍の中で数多くの自由が奪われたという過去は変わらない。

「もっと同級生たちと自由に交流したかった」という若者、「老親ともっと会いたかった」という中高年など、いろいろな思いを抱えている方がいることだろう。

 感染拡大防止という「目的」のためにあらゆることをストップするというやり方は正しかったのか。それを当然だと捉えたままで良いのだろうか。

 ベストセラー『暇と退屈の倫理学』の著者、國分功一郎氏は、東京大学での講義で、「目的」というものそのものをテーマに講話を行った。それをまとめたのが新著『目的への抵抗』である。学生に向けて語りかけるような口調で本質的な問題を論じている。

 國分氏が『暇と退屈~』の続編的存在と語る『目的への抵抗』は、何を私たちに問いかけ、どのような答を示しているのか。

『空気が支配する国』などの著書を持つ物江潤氏の書評を紹介する。

「目的に向かってまっしぐら」はそんなに大切か

 目的を設定し、そこに向かい合理的に行動をしていく――。

 それは、あまりにも当然の行為です。当たり前すぎて、わざわざ明示されても当惑するしかありません。もちろん、そんな行為を問題視するどころか、気にも留めたことのない方々がほとんどだと思います。
 ビジネスの世界のみならず、日常生活のあちこちにも目的があって、それに向かって私たちは日々を生きているし、生きざるを得ないのは明白です。
 むしろ目的を設定できない人、設定したとしても合理的な行動を選択しない人は軽く見られたり、批判されたりします。

 ところが、そんな目的が私たちの人生を拘束していたとしたら? それどころか、社会の暴走に手を貸していたとしたら、果たしてどうでしょうか。

 もしかすると、当たり前だと考えていた目的合理性について、私たちは再考する必要があるのかもしれません。

退屈と浪費の関係

 ベストセラー『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)で、著者の國分功一郎氏は、退屈を忌み嫌うという人間の性質に注目し、人間の生のあり様について、古今東西の知識人による論や人類史を参照しながら話を進めています。

 退屈から逃れるための一つの方法は、浪費にあると著者は論じます。ここでの浪費とは、具体的な目的を超えた行為(購入)のことです。たとえば、日常生活に必要な量を超えた食品や衣類の購入のように、生活のためという目的から逸脱した行為が該当します。

 食べられる量や一度に着られる服には限度があるように、この浪費はどこかで限界に達します。そして限界に達することで満足し、人は退屈から逃れられるのだと著者は主張します。限界ゆえに、これ以上は何も得ることができない状態が満足であり、そこで人は退屈から逃れられると考えるのです。
 しかし、そうなると購入がストップするので、資本の論理からすれば都合が悪い。皆が満足してしまえば資本の増幅が止まり、経済は停滞することでしょう。
 そこで登場するのが、情報や観念を受け取る消費です。つまり「流行に乗れる」「インスタに投稿して承認欲求を満たせる」といった、具体的な形のないモノ(情報や観念等)を人々に売るというわけです。

「退屈を嫌う」ことが無限の欲望につながる

 浪費としての食事であれば、胃袋の限界が来た時点でもう購入ができません。一方、「インスタに投稿して承認欲求を満たしたい」という観念的なモノを求める消費=食事ならば、まるで際限がありません。料理に手をつけずインスタに投稿すれば胃袋の限界とは無縁ですし、そうした行為が実際に生じていて問題視されています。が、限界に到達しないということは、いつまでたっても満足できないことをも意味します。

 こうして、至るはずのない満足を求め、人々は退屈から逃れるため消費を続けるという図式が見えてきます。頻繁に変わるファッションの流行のように、売りに出される情報や観念が企業により際限なく創出されている状況は、資本の論理が「退屈を忌み嫌う人間の性質」を悪用しているとも言えます。

 國分氏が『暇と退屈の倫理学』の続編的存在と位置付けている『目的への抵抗』では、こうした退屈から考える論を引き継いだうえで、新型コロナ禍にて出された「不要不急」というワードを手掛かりとし、目的に支配されてしまう人間について考えていきます。

感染拡大抑制のためには何でもする

 この数年、不要不急の名のもとに、私たちの行動は制限されました。「感染拡大を抑制するため」「人間の生存・健康のため」といった目的に向かって行動せよというメッセージが強く打ち出され、そこから逸脱する行為は慎むべきという理屈でした。そして私たちは、この言葉に対して大きな反発をすることもなく粛々と従いました。
 おそらく多くの方が、その具体例を容易に上げられることでしょう。

 祖父母が孫と会うことも一大事になりました。身内に会えないまま、手を握り合うこともできないまま、亡くなっていった方もいます。親の死に目に会えなかった方もいらっしゃることでしょう。
 学生たちは素顔を見せあう機会のないまま学校で過ごしました。修学旅行や文化祭、体育祭もなくなりました。十代の思い出となるほぼすべてのイベントが「我慢しなさい」の一言で潰されたのです。
 成人式、結婚式、葬式、あるいはお祭りなども「とんでもないこと」になりました。
 人が生きていくうえで大切に思っていることの多くは「不要不急」であり、「感染拡大防止」という目的のために抑制されたのです。

 考えてみれば、この目的合理性に適った行動を自明視する風潮は、消費社会のなかで、日々私たちに植え付けられてきた価値観なのかもしれません。資本の論理が、浪費のような目的から逸脱した行為を戒め、そして消費を礼賛し続けることで、目的合理性を絶対視する私たちを形作っていったのです。それはまるで、資本の論理によって駆動する社会が、その増大を妨げる目的からはみ出る行為(浪費)を抑制しつつ発展した軌跡のようでもあります。

 目的を達成するにあたり不要なものが排除されれば、必然的に目的のための手段しか取り得る選択肢がありません。ここで、ハンナ・アーレントが『人間の条件』で記した「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない」という言葉が、目的合理性の地位がかつてないほど高まった現代にて空恐ろしく響き渡ります。「目的は手段を正当化する」は、容易に「ある手段を正当化するために目的をつくる」に変貌を遂げるからです。

すべては目的達成のため、でいいのか

「新型コロナの感染拡大を抑制するため」や「テロリズムとの戦いのため」という目的は誰しもが賛成するでしょうが、アーレントの言葉を念頭に置いてみると、だからと言ってそこからはみ出るすべてのものが否定されるのもまた、よくよく考えてみるとおかしく思えてきます。

 目的合理性の名のもとに法を超越する行政権が安易に行使されてしまえば、その力は目的のために使われるだけでなく、私たちの生活を脅かす牙になることもあるでしょう。全権委任法により、法の制限を受けず行政権を行使できるようになったナチスは、その最たる例です。
 同様に、戦前の日本であれば「お国のため」「欲しがりません、勝つまでは」で多くの自由が奪われたことを私たちは知っています。

 しかしながら、目的に抗(あらが)うのは容易ではありません。不要不急の名のもとに実施された行動制限に唯々諾々と従ったように、現代人が目的に抗うのは大変に難しい。というよりも、抵抗するという発想が生じえないほど目的に従うのが当然になっているという意味では、私たちは目的の奴隷になっています。しかも、目的の奴隷になれば為すべきことが明白になり、人間が忌み嫌う退屈から逃れられるのですから、これは私たちが心の奥底で求めていることでさえありそうです。

目的に支配される人生

 しかし、本当に目的に支配される人生でよいのでしょうか。目的合理性を自明視することは、いつだって正しいことなのでしょうか。
 無目的を推奨しているわけでもなければ、目的合理性を否定しているわけではありません。しかし、常にそれが人生における絶対の正解だという前提において生きていいのでしょうか。常に目的達成のためにあらゆる犠牲を個人に強いる社会を私たちは望んでいるのでしょうか。

 本書では、「ただ生きているだけ、健康のためということでありとあらゆることを制限するのは正しいのだろうか」という具体的な疑問を縁としながら、書名のとおり「目的への抵抗」のための方法が記されています。

 その答えにたどり着く過程は知的刺激に満ちていながら、大学生や高校生に向けた発表であるため難解な言葉は避けられており、哲学に関する予備知識がなくても十分に読める内容になっています。

コロナ禍の記憶が薄れる前に

 いつか、新型コロナが全く話題に上らなくなる日が来ます。実際、既に耳にする機会は随分と減ったようにも感じます。

 しかし、そんな日が近づけば近づくほど、あの不要不急の名のもとに行動が制限されていった記憶も薄れていき、せっかく抱けた目的合理性への疑問もまた、どこかへ消し飛んでしまうかもしれません。

 だからこそ、これまで目的にがんじがらめにされてきた自分を見つめなおせるような、ある種の感動的な読後感さえ残る同書を紐解くのは、今を置いて他にはないように思います。

 同書を読んでは立ち止まって考え、そしてまた読み進めるという知的対話は、目的に隷属してしまった自分を解放する契機になるはずです。行動制限により、どんどんと日常が壊れていった悲しい記憶が薄れる前に、目的への抵抗の術(すべ)をそれぞれが考える必要があるのではないでしょうか。

新潮社
2023年9月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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