『道徳的に考えるとはどういうことか』
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理性、感情、想像力を総動員してこそ、「道徳的に考えること」は可能である
[レビュアー] 浜崎洋介(文芸批評家、京都大学大学院特定准教授)
「道徳」と聞いて、いいイメージを持つ人は少ないのではないか。歯の浮くような道徳教育から、価値観を押しつけてくる政治イデオロギーまで、「道徳」は、いつでもどこでも正しいだけの一般的規則のようなものに堕してしまったかに見える。
が、それは問い方が悪かったのかもしれない。「道徳とは何か」と問うから一般的な規範論に向かってしまうのであって、むしろ、私たちは〈道徳的に思考するとはどういう行為なのか〉と問うべきではなかったのか、『道徳的に考えるとはどういうことか』の著者・大谷弘(東京女子大学、ウィトゲンシュタイン研究者)はそう考える。
たとえば、同じ非暴力の直接行動(議会を通さない非合法活動)でも、キング牧師の公民権運動の道徳性と、高速道路料金不払い運動の道徳性とでは、私たちは異なる評価を与えることになるだろう。では両者を分かつものとは何なのか。それを考えようとしたとき、私たちは形式的な規範論から離れて、その主張が導かれるまでの文脈に目を移すことになる。その人の人生、生き方、その人が生きてきた社会と歴史――要するに、個々の「言語ゲーム」が埋め込まれている先の「生活形式」(ウィトゲンシュタイン)に想像力を及ばせながら、その主張が引き出されてくる脈絡と視点を個別具体的に検討し直すのだ。
しかし、それが「道徳的に考えること」なのだとしたら、道徳とは、学術的で形式的な言葉によって養われるものではなく、むしろ「理性、感情、想像力といった自己の能力を総動員」して味わわれる文学・芸術のなかでこそ養われるものだと言うべきではなかろうか。実際、本書が、キング牧師からプラトンの『クリトン』、ウィトゲンシュタイン哲学から動物倫理学、『ハックルベリー・フィンの冒険』から槇原敬之のポップミュージックまでを「パッチワーク」のように繋ぎ合わせながら、私たちの眼を「多様な要素を含む……ごちゃごちゃした活動」としての「道徳」に向かわせようとしているのも、そのためだと考えることができる。
押しつけがましい「正義」が行き交い、ついには戦争までが引き起こされている現在、言葉の形式的な整合性のみならず、言葉と行為との関係、その言葉が置かれた時と所と立場に眼を向けさせようとする本書の意義は大きい。それは、〈人々の精神的痙攣を取り除こうとする態度〉において、まさしくウィトゲンシュタイン的実践を引き継ぐ仕事だと言えよう。