『ウツパン -消えてしまいたくて、たまらない-』
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「死にたい」のグラデーション――『ウツパン』の衝撃と共感
[レビュアー] 頭木弘樹(文学紹介者)
死への葛藤をリアルに描いたコミックエッセイ『ウツパン 消えてしまいたくて、たまらない』(新潮社)が刊行された。
大学2年生のある日、目が覚めると28時間が経っていた、という作者の有賀さん。思い通りにならない現実を突きつけられ、孤独や無力感に苛まれた有賀さんは、それ以降「死にたい」気持ちに振り回されるようになる。
ほぼすべてが有賀さんの実体験に基づいており、自殺防止や希死念慮への理解が深まることを目的として専門家監修のもと漫画化された本作は、私たちに何を気づかせてくれるのだろうか?
20歳で難病になり、13年間の闘病生活を送っていたときにカフカの言葉が救いとなった経験から『絶望名人カフカの人生論』を編訳した頭木弘樹さんが本作に寄せた書評を紹介する。
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「カゼをひいてつらい」と言われたとき、人は自分がカゼをひいたときのことを思い出して、相手のつらさを理解しようとする。
「失恋して悲しい」と言われたとき、人は自分が失恋したときのことを思い出して、相手の悲しさを理解しようとする。
しかし、実際には、同じカゼで失恋でも、そのつらさや悲しさは、人によってずいぶんちがう。ごく軽い人もいれば、カゼや失恋で死ぬ人もいる。つまり、かなりグラデーションの幅がある。
このグラデーションの幅がとくに広いのが、「死にたい」ではないだろうか?「死にたい」と口にしたことのない人はおそらくいないと思う。暑い日にビールが飲めなかっただけでも、寒い日にほかほかの肉まんが売り切れだっただけでも、「死にたい」と言う人はいる。一方で、ほんとうに自殺するぎりぎり境界線上の「死にたい」もある。
ここまでグラデーションの幅が広いと、だれかから「死にたい」と言われたとき、自分の「死にたい」を思い出してみても、まるで理解できないことがある。私にもそういう経験がある。「死にたい」と言う人がいて、なんとか声をかけてあげたい、手をさしのべたいと思ったけれど、「死にたい」のレベルが自分の知っている範囲をはるかに超えていて、どうしていいか、まったくわからなかった。
『ウツパン 消えてしまいたくて、たまらない』という漫画を読んで、そのとき理解できなかったことが、まさにここに描かれていると感じた。読んでいて、そのときの知り合いのことが、ありありと思い出された。『ウツパン』は、著者の有賀が、「死にたい」気持ちをリアルに描き、大反響となったコミックエッセイだ。主人公がかわいいパンダであることで、逆にとことん暗い気持ちまで描くことに成功している。
この漫画を読んでまず驚いたのは、「なぜこんなにも助けを求めるのが難しいんだろう」ということだ。精神科や心療内科は予約制で一カ月も待たされる。大学の保健センターも予約制。友人に相談すると、「そういうことあるよね~ わかるわかる」と言われ、「散歩したり筋トレしたら気分転換になるよ」とアドバイスされる。学生相談室では「病院に相談してください」と言われ、病院では「『死にたい』を事務的に処理された」。これでは、ほんとにどうしたらいいのか……。
そして、自殺未遂をしてしまうと、今度は自殺の理由を問われる。「死ぬにはわかりやすい動機があるといいらしい」という著者の言葉は痛切だ。たしかに、動機がはっきりしていることもあるだろう。正岡子規の日録(『仰臥漫録』)に「自殺熱」という言葉が出てきて印象的だった。子規は「むらむらと」自殺したくなる。その動機は明確だ。病気の痛みや苦しみから逃れるためだ。
しかし、芥川龍之介は自殺する前の手記(「或旧友へ送る手記」)に「自殺者は大抵(中略)何の為に自殺するかを知らないであらう」「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である」と書いている。『ウツパン』でも、いのちの電話について、死にたい理由を訊かれるので「『死にたい』をうまく伝えられない私にはむずかしい代物だった」と書いてある。
以前、ある一流企業のエリートの人と話していて、私が「でも、自分が何に悩んでいるか、わからないこともありますよね」と言ったら、大笑いされ、「自分が何に悩んでいるか、わからないなんてこと、あるわけないじゃないですか。出世したいとか、不倫がバレたとか、ちゃんと理由があるもんですよ」と言われて、びっくりしたことがある。こんなことが言えるのは、おそろしく順調に生きてこられた人だけだろう。しかし、まだほんとうに「死にたい」と思ったことのない私たちも、理由のわからない「死にたい」気持ちに苦しめられている人たちに、「理由はなんなの?」と迫ってしまっているのかもしれない。理由のわからない「死にたい」に、周囲の者はどうしていいかわからないのだ。私も困惑した。『ウツパン』を先に読んでおきたかったと思った。
あなた自身は自殺を考えないかもしれない。でも、あなたの身近な人が「死にたい」と言い出すかもしれない。そのときのためにも『ウツパン』を読んでおくことは、とても助けになるだろうと思う。
そして、自分自身が「死にたい」気持ちにとらわれている人にとっては、安易な解決法やアドバイスで贋(にせ)の希望を語ったりしないこの本は、自分の気持ちをほんとうにわかってくれる命綱ともなるのではないだろうか。