あなたとは笑ってお別れ出来ます
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「定年」です
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「私」は四年前に長年勤めた会社を定年退職した。その後、新しい職には就いていない。
だから暇はある。一週間か十日に一度の割で銀座に出る。荒川沿いの堀切にある自宅から電車を乗り継いで四十分ほど。暇のある身には遠い距離ではない。
高井有一の「半日の放浪」はそんな、定年退職した「私」が二月の一日、銀座を歩く。昭和六十年の作。
「私」の堀切の家は戦後間もない頃に建てたから老朽化している。思い切って鉄筋コンクリートの家に建て直し、息子の家族と住む。
取壊しは明後日から。その日は住み慣れた家の最後の日になる。
「私」は銀座を歩きながら四年前、定年退職した日のことを思い出す。
会社の規定で定年退職は満六十歳の誕生日と決まっている。「私」の場合は八月三日。
最後の日の退社時間は午前十一時。玄関ホールまで見送ってくれた総務部長はいう。「あなたとは笑ってお別れ出来ます」。出向もさせられなかったし最後まで管理職で通したから。
そのあと「私」は一人で銀座を歩いた。妻は一緒に外で食事をしようと申し出たが断わった。一人になりたかったのだろう。
しかし、結局、映画を観たぐらいで家に帰った。四年後のこの日も、無為に銀座界隈を歩く。
四年前ともう町の様子は変っている。住み慣れた家も取壊される。自分の時代は終ったと知る初老の「私」の寂寥感が胸に迫る。