『グリューネヴァルト〈イーゼンハイム祭壇画〉への誘い』
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『グリューネヴァルト 〈イーゼンハイム祭壇画〉への誘い』大杉千尋著
[レビュアー] 小池寿子(美術史家・国学院大教授)
磔刑キリストに託す希望
慟哭(どうこく)の痕を留(とど)める顔、痙攣(けいれん)した指、釘(くぎ)打たれ歪(ゆが)んだ足。無残な我が子の脇で、蒼白(そうはく)の聖母マリアは凍りついたように気絶し、それを支える聖ヨハネも仰ぎ見るマグダラのマリアも、髪の先まで嘆きに打ち震えている。史上もっとも凄惨(せいさん)なキリスト磔刑(たっけい)を中心に据えたこの祭壇画は、なぜ、誰のために描かれたのか。本書は本邦初の同祭壇画と画家についての本格的な研究書である。
画家は通称グリューネヴァルト。1517年からの宗教改革前後のドイツを生きた。観音開き状に開く扉を二重に備えた多翼形式の本作は、全部で三面をもつ。I部では、第一面(磔刑、左右に聖セバスティアヌスと聖アントニウス、下部に哀悼)、第二面(受胎告知、天使の奏楽・聖母子、復活)、第三面(聖アントニウスと聖パウロス、聖アントニウスの誘惑、木彫厨子(ずし)と下部)を順次、図像伝統を含めて解読し新説も提示する。II部で画家の生涯と受容史、附録(ふろく)には、今後の研究に資すべく遺産目録と全素描を掲載。
画家の円熟期を画すこの祭壇画は、ペストと並ぶ流行病、麦角中毒の患者を収容するアルザスのイーゼンハイム修道院付属聖堂の主祭壇に置かれていた。真菌が寄生した麦を食べて発症するこの病は当時、原因がわからず、手足の焼けるような痛み、皮膚の炎症と黒変、幻覚症状などを経て四肢切断や死に至り、苦行聖人アントニウスの遺骨を浸したワインを飲むと癒えるとされた。弓矢で射貫(いぬ)かれても一命を取りとめた聖セバスティアヌスら病の守護聖人に祈願すれば治ると信じられたのである。そして、磔刑のキリストと苦悩を共にし、その復活に救済の希望を託すための祭壇画なのだ。
不遇の死を遂げた後、忘却に沈んだこの画家の再評価は、何より19世紀末のデカダンス作家ユイスマンスの鮮烈な文章「見よ!(中略)血膿(ちうみ)の時期が来た」「人間的にはもっと卑しめられ、もっと死んでいる」による。ついで、ドイツ国民の体現として受容される歴史を刻む。人間世界の痛みを今に伝える本作に長年取り組んできた著者の渾身(こんしん)の書である。(教育評論社、5170円)