『寄せ場のグルメ』中原一歩著
[レビュアー] 尾崎世界観(ミュージシャン・作家)
労働者の街 染み込む味
知人に東京下町の立石で飲もうと誘われ、葛飾区で生まれ育った私が立石に行くのは区役所に用事がある時ぐらいだったので、少し戸惑った。しかしいざ行けば、なるほど「せんべろの街」と言われるだけあって、千円でべろべろに酔えそうな店が狭い路地にひしめいている。行列の並び方にも決まりがあり、常連らしきおじさんに注意されながら、やっと中に入った。ところが店内の空気に呑(の)まれ、注文の仕方もまるでわからない。地元のはずが、ずいぶん遠く感じたものだ。本書は主に、そうした昔ながらの大衆酒場、大衆食堂、焼肉店などを、その街に暮らす人々や産業の歴史を通して深く掘り下げていく。タイトルにもある「寄せ場」は、本文にも事あるごとに出てくる言葉だ。それなのに、この本はどこか人を寄せ付けない。今すぐ行きたくなるテレビや雑誌のグルメ特集と違い、ここで紹介されている店にはもれなく、気軽に近寄れない迫力がある。でも読みながら、まるで自分がカウンターの内側に立っている気がしてくるのが不思議だ。そこからの景色は、ただ客として訪れただけでは決して見えないもの。店にやってくる人々を見つめるそんな眼差(まなざ)しの先に、今はもう姿を変えた街、かつてそこで行われていた労働、発展と引き換えに失われていった何かの影がじんわり浮かび上がってくる。
パッと見て憧れて、ただ同じ服を買い揃(そろ)えて着てみても、生活と結びついたその人の着こなしにはならない。袖捲(まく)りひとつ取っても、そこにはちゃんと意味があり、大事なのは袖を捲るに至るまでの流れだ。こんなに美味(うま)そうな料理がなぜ美味いのか、味付けだけでなく、そこに至るまでの流れを教えてくれる。
誰とでも繋(つな)がれる時代だからこそ、もう消えつつある「寄せ場」に惹(ひ)かれるのだろう。見ず知らずの人を寄せ付けない「寄せ場」。それでも行ってみたいと思う店が、この中にきっとある。(潮出版社、1980円)