『超人ナイチンゲール』
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『超人ナイチンゲール』栗原康著
[レビュアー] 小泉悠(安全保障研究者・東京大准教授)
合理性超え無限の献身
ナイチンゲールが優しいだけの「白衣の天使」だったというわけではない、ということはもはや常識であろう。優秀な頭脳と教養に加えて、常人離れした行動力を持った人物がナイチンゲールだった。その優れた資質を活(い)かして彼女が近代看護学の基礎を切り開き、クリミア戦争では統計学を駆使した患者管理によって傷病兵の死亡率を劇的に低下させたことは有名だ。
ここから導かれるナイチンゲール像は、「近代人」である。理性に基づいて合理的な計算を行い、最適の効率で目的を達成する。そのような精神を体現した人物としてナイチンゲールは描かれる。
これに対して本書は、全く別のナイチンゲール像を突きつける。ナイチンゲールは神秘主義者であった、という側面を掘り起こしてくるのだ。教会の権威に囚(とら)われずに内なる神と一人で向き合い、その命じるところに従って行動する。そうして至るのが自他の区別の消失、無限の献身であって、近代合理性の塊のような看護学の方法論は、そこへ至る手段にすぎない。だから、近代を超えたところに彼女は位置していた、というのが本書のタイトルにある「超人」の意味するところである。
このナイチンゲール像が正しいのかどうか、判断する能力は評者にはないが、常識を揺さぶられるという点では間違いなくエキサイティングな読書体験であった。それでいて文体は軽妙で、引き込まれるようにして読み終えられる。
それにしても、本書に出てくるクリミア戦争での軍隊医療の酷(ひど)さは、評者にウクライナ戦争を想起させずにはおかない。続々と運び込まれる傷病兵、お粗末な治療、不潔な病院、そして非人間的な扱い。今、ロシア兵たちが直面している状況そのものだ。現在の米軍では重傷者の9割を救命できるというが、ロシア軍ではこの割合が半分を割っているとされる。彼女の残した宿題を、我々はまだ終わらせていない。(医学書院、2200円)