先人たちの思索と真摯に格闘する

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ナショナリズムの復権

『ナショナリズムの復権』

著者
先崎 彰容 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
哲学・宗教・心理学/倫理(学)
ISBN
9784480067227
発売日
2013/06/05
価格
842円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

先人たちの思索と真摯に格闘する

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 ナショナリズムを論じることは日本では厄介なことである。否定にせよ、肯定にせよ、妙にボルテージが上がり、うわずった議論になる。そんな中で、萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)は切れ味鋭く、「ナショナリズムはファシズムをもたらしたからダメ」という反ナショナリズムを論理的に批判した快著だった。それに対して、先崎のこの本は、国家を考え抜いた先人たちの思索を、先人たちそれぞれが時代の要請に全身で応えた書として捉え、そこから学ぼうとしたものだ。
 著者が「真剣に格闘する」対象として選んだのは、ハナ・アーレント『全体主義の起原』、吉本隆明『共同幻想論』、柳田国男『先祖の話』、江藤淳『近代以前』、丸山眞男『日本政治思想史研究』である。そのかたわら、橋川文三、網野善彦、柄谷行人、高坂正堯、オルテガ、ポール・ヴァレリーなども参照される。それらの本や著者は、「知の意匠」として持ち出されるのではない。著者の思索の必要によってひもとかれている。
「ナショナリズムは誤解されっぱなし」というのが著者の問題意識である。その誤解は三つある。全体主義、宗教、デモクラシー(ポピュリズム)。それらと等式で結びつくとされたことで、ナショナリズムは危険なものとして不当に貶められてきた、という立場である。 
 その誤解を慎重に(慎重すぎるかもしれない)解きほぐしていく過程はおもしろいが、この本を独特なものにしているのは、その根底に「死」への誤解が据えられている点だろう。
「第二次大戦が世界中で大量の犠牲者を出した以上、戦後のこの誤解は確かに本質的で、納得がいく」「しかしだからこそ、死の匂いすべてを否定する必要はない」「むしろ勇気をもって匂いの差に敏感でありたい」
「死」がもっとも露出した昭和二十年の春に、柳田国男は『先祖の話』を書いた。その時、柳田は超人的な民俗学者から稀有な思想家になった、と著者は考える。大量の死者、それも無念を残したままの若い死者、家の崩壊により宙をさまよう霊魂を前にして、柳田は「数千年にわたるこの国の家と死、人々は霊魂をどう理解し扱ってきたのか、その慣習に思いをめぐらし」た。
 たしかに『先祖の話』は柳田のいつもの晦渋さが弱まって、ストレートに響いてくる本である。「死者の側から」日本の姿を見ている切実さにあふれている。柳田のような天才であっても、「自分の足元が崩れ去るような巨大な変化」が反省の大きな糧になったのだろうか。
「戦争は思想家を生む」という一語が、本書の中に出てくる。著者が本書で「格闘」した先人たちは皆、一九四五年の心の衝撃をことばに刻んだ思想家である。それ故に、その思想を批判するにしても、たとえば丸山眞男の内実に最大限に寄り添って、その上での否定となる。そこには快哉はない。
 柳田と対比的に登場する網野善彦の場合でも、斬新な中世史家としてでなく、思想家・網野として批判される。一九六八年を抽象化し、移動と流動性と拡張を重要視する「土地から離れ」た思想家としての網野が、「定住」を重くみた吉本・柳田と鋭く対峙する。しかし、移動する漂泊者中心の網野史観では、死者との交流はないではないか、と。
「定住の暮らしとそこで営まれる信仰、家について考え、自分の力よりも背負ってきたものを受けいれること。これが明治以来忘れられつつあった本当のこの国の死生観であり、倫理観だったのである」
「死者は死んで後もなお、家を見守るという責任=倫理を課されていること、これが柳田のナショナリズムを支えている思想である」
 これらのことばには、明らかに3・11の「死」の反響がある。津波の傷跡、放射能への不安、それらに現実的に対処することだけでは済まされない、もっと根源的な問いを導き出そうとする志が潜んでいる。
 二〇一一年が、一九四五年に匹敵する日本人の経験になるためには、まだまだ時間が必要だろう。その前に、二〇一一年は風化しないとも限らない。そうならないように言っておこう。二〇一一年の思想家、誕生せよ、と。

新潮社 新潮45
2013年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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