逆転する奴隷姉妹との関係 美しい声が紡いだ名品
[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)
最初に聞こえてくるのは、七十歳の老女の声だ。
〈むかしわたしは鬼たちの住む場所にくらしていた。わたしも鬼のひとりだった〉
南北戦争が始まる前、十四歳だった〈わたし〉は、母のまたいとこライナス・ランカスターが〈楽園(パラダイス)〉と自慢する、ケンタッキー州シャーロット郡の豊かな土地や屋敷や家畜の話を鵜呑みにし、彼の妻になることを承知する。“約束の地”で彼女を迎えたのはランカスターの奴隷である姉妹、十歳のクリオミーと十二歳のジニア。農場や屋敷の様子は聞いていた話とはちがってずいぶんみすぼらしかったし、〈わたし〉の家では紳士的だったランカスターは横暴で暴力的な素顔をあらわにしたけれど、年が近い三人の少女は主従の関係を超え、子供らしい遊びで互いの距離を縮めていく。
その関係が決定的に壊れたのは、ランカスターが夜になるとジニアとクリオミーの部屋に通うようになってから。ある重大な秘密を知った〈わたし〉は二人に折檻をしはじめ、それは日に日に激しさを増していく。手が痛くなるまでたたき、木のボウルで頭の横をなぐり、重たいスプーンで顔をひっぱたき、背中を鞭打ち、寒くて汚い物置小屋に閉じこめ……。最初は一人だった鬼が二人になる。そして、ランカスターが何者かによって首のうしろを豚突きナイフで刺されて死ぬと、〈わたし〉と姉妹の関係は逆転する。ケンタッキー州の山の中、来訪者もほとんどない閉ざされた場所が、こうして〈鬼たちの住む場所〉になっていく。
ところが、本書『優しい鬼』の作者レアード・ハントは、そうした〈ジゴク〉を、悲痛だったりヒステリックだったりする筆致ではなく、途方もなく美しく落ち着いた声で描き出すのだ。声の主は〈わたし〉だけではない。ジニア、クリオミーの息子、楽園/ジゴクを離れてのち、〈わたし〉の雇い主になった心優しい男。ハントは、彼らの声を通して、〈人とは中でちいさなロウソクの炎がゆれている頭ガイコツ〉であるということ、あらゆる悪しき感情の象徴である炎を灯す可能性は誰にでもあるということ、いったん灯った炎を消すのはとても難しいということ、にもかかわらず希望は常にそこにあるということを静かに伝える。
読み終えたのに、終わったような気がまるでしない。いつまでも小説世界の中から出ていけない。レアード・ハントの声の求心力の強さに、わたしは今少し怯えている。
レアード・ハント
1968年、シンガポール生まれのアメリカ人作家。デンヴァー大学英文科教授。日本に住んだこともあり、国連の報道官や英語教師の経験がある。11月末から来日中。