小学生の日々の不思議

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学校の近くの家

『学校の近くの家』

著者
青木, 淳悟, 1979-
出版社
新潮社
ISBN
9784104741045
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

小学生の日々の不思議

[レビュアー] 松田青子(作家)

 小学校と中学校に通っていた頃、学校のすべてが異様に感じられて仕方なかった。先生も皆どこか変だった。担任の男性教師が、音楽の授業で教科書にも載っていなかった長渕剛の「しゃぼん玉」の歌詞を自らプリントアウトし、生徒たちに何度も歌わせたことなど、いまだに意味不明で時々思い出す。「泣きっ面にしょんべん ひっかけられた夜」というところで、当然のことながら笑い声が上がると、「何を笑っているんだ!」と怒られた。学校が嫌いだったので、どうせ行かなければならないならせめてもっと近ければいいのにと、学校に近い家の子が羨ましかった。しかし、あれから何十年も経ち、自分と同じ頃小学校に通っていた、「学校から家が近い」男子の心の機微を知る日が来るとは思いもしなかった。

 題名の通り、「学校の近くの家」に住む五年生の杉田一善は、昭和六十三年に小学校に入学した。「昇降口から正門を通ってほとんど一分以内に家に帰り着くことができる」彼は、「「朝の通学班」に属さない、おそらく全校でただ一人の児童」である。思春期のせいなのか「下校列」に加われない自分にある種の劣等感を覚え、「何かと学校の近さを意識せずにいられない出来事」の多さに、「近い近いと密かに嘆いている」。近すぎるので、下校する友人たちについていき、「遠回り」して帰ることもあるくらいだ。家が学校に近いなんて良いことでしかないと思っていたから、すごく意外だった。入学する前は外側から、そして入学後は内側と外側の両方から小学校を見つめ続け(同時に、学校から自分の家が嫌でも目に入る)、通常の生徒ならば目にすることのない休みの日の学校まで知っている一善。少年の淡々として、時に素っ頓狂な感慨と、母の光子の「いきいきと、かつ赤裸々に」綴られた日記とともにひもとかれるのは、彼の目から見た家族の、学校の、ひいては地域の不思議と言えるようなものだが、本人は一つ一つの出来事に対して感覚的に反応しているだけで、「不思議」だとも思っていないようだ。地元の不老川が三年間連続で「全国一汚い川」に認定され、一善にとって身近な環境汚染の例となり、生徒たちの机は「川」の字に並び、息子の教育に燃えていた頃の光子は「感受性の導入路」として、川の流れを想起する。生徒と親と学校と地域が微妙につながり、微妙に断絶し、一善の日常を形づくっている。

 二年ごとにクラス替えがあり、担任が変わるという法則を、五年生になってようやく体系的に捉えることができるようになった一善は、まるで「三段式ロケット」だと感じる。担任の馬淵和道は初日の学級活動の時間、「そうする『誰でも』が、『旅人のようなもの』だって歌っているんだね」と『銀河鉄道999』の主題歌の一節に触れ、突如として歌い出すのだが、前述の「しゃぼん玉」の一件を思い出し、あるあると深く頷いた。「はい、静かになるまでに先生の時計で十四秒かかりました」という一言もおなじみのものだが、こうして文章化されると異様さが際立つ。

 一善の歴代の担任教師の不思議は、ちょうど妹を妊娠中だった母の光子の不思議と相乗効果をもたらし、不穏と言っていいほどの印象を生み出す。一善が二年生の後半の頃、担任の樋口朱美から、妊娠した自分をまるで「汚物でも見るような目で見られた」と光子は深く心を閉ざし、それから五年生になるまで、熱心だったPTA活動から手を引いたどころか(ほかの要因もありそうだが)、一善が学校の話をしようとすると、「そういうのやめて、言うのやめて!」と過剰に遮るようになる。一番強烈なのが、三年生の頃、光子が出産した際の担任高梨武行が、当時の「連続幼女誘拐殺人事件」を引き合いに出し、「みんながビックリするくらい安産だったってね。だから安心して。(中略)安産ていうのは、安全、安心、安定の「安」に、生産の「産」。だからお母さんが幼女を誘拐してくるはずがないのは明らかだね。それを疑ったりしたことは、誰にも言わないようにしよう」と、不気味な一言を一善にかけるところだ。連作短編である本書は七章に分かれているが、ほとんど同じ時期について語られ、ちょっとずつお互いを補完している。読み進めていけば、この発言の意図がわかるだろうかと期待したが、最後まではっきりとせず、小学生男子にとっては母が謎でしかなかったように、不穏さだけが残った。あと、確かに学校の先生は、こういう風に唐突に漢字を教えてくれる。

 五年生になった一善に、大きな変化が訪れる。教室の位置が変わったことで、自分の家の「玄関ドアと居間の窓あたり」が丸見えになったのだ。家の窓からこっちを眺めているパジャマ姿の父が目に入った一善は、「あそこであんなふうにダラッとしていていいわけがない……!」と、「恐ろしく恥ずかしい」気持ちに襲われる。光子に比べると目立った存在ではないが、父も窓から「光学三倍ズーム」のビデオカメラで体育の授業を撮影し、息子を悩ます。「分かる、親って変だよね」という会話を交わした同じ班の仲間たちと、住んでいる町の不思議に挑もうとしたり、それがうやむやになったり、急に父親に性の不思議をぶつけてみては、よくわからない解答をもらったりと、一善の小学生らしい日々は過ぎていく。

 もう一つの大きな変化は、家の隣の平屋住宅が学童保育所となり、光子がそこの補助指導員として再び活気を取り戻すことだ。しかし、「名義も印影も顔も貸して」「不動産屋に物件を押さえておいてもらうのに内金まで入れて、結局そのままずるずると敷金も礼金も当面の家賃も全部うちで立て替えて」と、尋常ではないコミットぶりを見せ、ますます光子の謎が深まる。光子が気になって仕方ない。

 夏休みの作文によると、一善は五年生になったら、学校の近くに住んでいることが気にならなくなったらしい。「家から学校を見ていると、いつも学校では気づかないようなことに気づいたりするのが『おもしろい』と感じられる」とさえ言っている。高学年になり成長したようにも思えるが、学校での生徒の会話や作文の感想は「学校がそうさせる」ものであり、本心であるかどうかは怪しい。読んでいると、一行残らず狐につままれたような気持ちになるが(私は一行ごとにげらげら笑ってしまう)、そもそも学校とはそういうものだったのだ。我々はこのいびつさと不思議を乗り越えて大人になったんだと、なんだか誇らしくもなる。

新潮社 新潮
2016年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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