最北端の駅を目指して『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』

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最北端の駅を目指して『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』

[レビュアー] 原武史(放送大学教授、明治学院大学名誉教授・政治思想史)

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(評者:原 武史 / 政治学者)

 同じく日本列島を移動する場合でも、東京から西に向かうのと北に向かうのでは、移動の意味がまるで異なる。
 西に向かうことは九州のほうに向かうことだ。それはすなわち、古代から朝鮮半島や中国とのつながりが強く、いち早く文明が取り入れられた地域に向かうことを意味する。気候や植生も東京とそれほど大きな変化はない。
 一方、北に向かうことは北海道のほうに向かうことだ。そこには「西」とは歴史も人口密度も気候も植生も全く異なる土地が広がっている。たとえ同じ距離を移動しても、西に向かうよりはるかに東京との落差を感じるのである。
 北海道よりさらに北にあるのが、かつて「サガレン」と呼ばれた島だ。日本が日露戦争後から敗戦まで北緯50度以南を植民地にしていた時代には、樺太と呼ばれた。戦後に全島がソ連の支配下に入ってからはサハリンと呼ばれている。1990年代まで、島の外からこの島を訪れることはきわめて困難だった。
 梯さんと私は、ともに「乗り鉄」を趣味としている。鉄道マニアには海外の鉄道に全く関心をもたないナショナリストも少なくないが、梯さんは明治以降に再三変更された日本とロシアやソ連との国境を軽やかに乗り越え、列車に乗ってどんどん北に向かう。本書の第一部は、現在のサハリン最大の都市で、植民地時代には豊原と呼ばれたユジノサハリンスクと、サハリンで最も北にある駅、ノグリキの間を、梯さんが寝台急行列車で往復したときの実体験を記した紀行文である。
 ところが第二部になると、一転して宮沢賢治が1923(大正12)年に故郷の岩手県花巻を出て鉄道と連絡船を乗り継ぎ、樺太を訪れたときに書かれた詩や、花巻に帰ってから書き始めた『銀河鉄道の夜』をもとにした賢治の心象風景の分析に力点が移ってゆく。
 当初はサハリンで賢治が乗ったのと同じ線に乗るつもりが、ちょうど線路幅を広くする工事の期間とぶつかり、やむなく車での移動となった。
 この点はちょっと残念ではあったが、賢治が樺太で降り立った栄浜(現在のスタロドゥプスコエ)という駅の跡を確かめた梯さんは、さらにその北方に広がる白鳥湖と呼ばれた湖(正確には沼ないし潟)にまで足をのばしている。
 栄浜は、植民地を含む当時の日本では最北端の駅だった。梯さんが鉄道でサハリン最北端の駅を目指したことと、それより百年近く前に宮沢賢治が鉄道で樺太最北端の駅を目指したことの間には、深いつながりがあったのである。
 白鳥湖には『サハリン島』を記したチェーホフがすでに訪れていた。虫も鳥もいない、まさに極北のような湖の風景を目のあたりにした梯さんは、「確証はつかめない」としながら、『銀河鉄道の夜』のある場面をもとに賢治もまた白鳥湖を訪れた可能性に言及する。そこには、ノンフィクション作家としてさまざまな現場を訪れてきた体験が裏打ちされている。単なる文学の研究者とはこの点が違う。
 宮沢賢治にとって花巻から南に向かうことは、東北本線の上り列車に乗って上京することを意味したはずだ。そこには賢治にとっての信仰の柱というべき国柱会があった。だが最愛の妹が死んだとき、賢治は東北本線の下り列車に乗り、最北端の駅を目指したのだ。自らも最北端の駅を目指した梯さんは、先行研究に対して十分に配慮しつつ、このことの意味を深く掘り下げている。
 『廃線紀行』に代表される鉄道紀行と『狂うひと』に代表される作家研究が融合しあい、比類のない作品が生まれたことを心から喜びたい。

最北端の駅を目指して『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』
最北端の駅を目指して『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』

▼梯久美子『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321808000037/

KADOKAWA カドブン
2020年4月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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