現実のちょっとした範囲、に潜んでいる人々の痛み 少年アヤがうそ偽りのないエモさを感じた小説

レビュー

6
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流れる星をつかまえに

『流れる星をつかまえに』

著者
吉川 トリコ [著]
出版社
ポプラ社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784591174111
発売日
2022/08/10
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

うばわれないための、物語

[レビュアー] 少年アヤ(エッセイスト)

『余命一年、男をかう』で、第35回山本周五郎賞にノミネート、第28回島清恋愛文学賞を受賞するなど注目を集める吉川トリコの新作小説『流れる星をつかまえに』が刊行された。さまざまなバックグラウンドを持つ人たちが悩み惑いながら一歩を踏み出していく姿を描く本書に、エッセイストの少年アヤ氏が書評を寄せた。

 ***

 おもしろかったので、それだけを言って、あとは読んでね、と託したい。だって本当は、私なんかが言葉を連ねてほじくるのは、すごく野暮だと思うから。でも、ほじくらないでちょうだい、というタイプの人は、はじめからこんなもの読まないで、さっさと本屋さんに行くだろうから、私も気楽に書こうと思う。

 前置きが長くなりました。

 エモい、という概念が、ここ数年であらゆる市場を席巻し、いまやぱっと見ただけで、これはエモいんだろうな、とわかるようになった。デザインが様式化されているせいだろうか。あるいは、放出されている微粒子みたいなものを、嗅ぎ取れるようになったせいだろうか。読まなくても、観なくても、聴かなくても、わかる。

 それを逆手に取ってか、いまや保守系の某政党が、なにやらエモい感じのポスターを作り上げ、街のあちこちに掲げはじめている。私は散歩の途中で見かけるたびに、怒りを通り越して脱力してしまう。

 いまこの国を生きる人々が、どうしてこうもエモさを渇望しているのかといえば、おそらくそれは、手っ取り早くこころみたいなものに触れたいからだろう。令和の日本には、そうでなくてはいても立ってもいられないような渇きと不安が蔓延しているのだ。(からこそ、その根源たる某政党が、エモいイメージを戦略的に取り入れるのって、本当に暴力的だよね)(正直ちょっとおもしろいんだけど)(みんなもお散歩しながら探してね)

 といっても、私はエモさに群がる人々を、くさしたいわけではない。前述のとおり、このムーブメントは、あくまで必要だから起こっているのだと、同時代を構成する一員として切に思うから。

 けれど、それほどまでに求めまくった結果、わたしたちはすこしでも、こころに近づいたのだろうか。こころみたいなものは、果たしてこころそのものなのだろうか。

 そもそも、エモさとは、なにで、どこに発生するものなのだろうか。それがわかっていないと、結局は政党とか、広告代理店とか、とにかくおおきなものに絡め取られて、なにも残らないまま、手放しで傷と痛みの時代に突入していくばかりではないだろうか。

 そんなことを悶々と考えていた矢先、私はみなさんよりちょっと先に、本作を読ませてもらう機会をもらった。

 六つの短編からなる本作は、オムニバス形式をとっていて、ちょっとした範囲の人間関係や、日常、そのつながりを、ゆるやかに描いている。とんでもない大事件は起こらないし、超個性的な人も出てこない。とくにわるいやつもいない。

 けれど、現実のちょっとした範囲、にも潜んでいるであろう人々の痛みや、こころの機微が、丁寧に、丁寧に描かれている。

 たとえば、貧困や母子関係など複合的な問題を抱えるセクシャルマイノリティの男子高校生。在日コリアンであることを、高校生になってから知らされた姉妹。おばさん、と切り捨てられ、こころも尊厳もないことにされかけている女性たち。そして当然のようにここに並ぶ、並ばざるをえない、「ふつう」の女の子たち。

 そういった人々が中心となって織り成す物語は、そうでない人たちからすれば、ポリコレに配慮した、特異な世界、と映るのかもしれないが、わたしたちって、ふつうにそのへんにいるのである。だけど、なかなか見えない。なぜならいるということを、社会がそもそも想定していないから。

 存在さえないことにされがちなものたちに、こころがあるだなんて、だれが想像するだろう。だから当事者たちは、存在だけでなく、その痛みもひた隠すしかない。

 もちろん、探そうと思えばコミュニティが存在し、話を聞いてもらえるかもしれないが、辿りつくにはまず、自らがマイノリティであることと、その痛みを、受け入れなくてはいけない。常日頃から多数派の社会に適応せんとあがくマイノリティにとって、それは案外むずかしいことなのだ。

 絶望的なのは、多数派の人たちさえ、この国では似たようなくるしさを抱えているということだ。

 そうなると、ますますわたしたちの声は届かない。

 そうでない世界を作りたい、と、私はつねに思っている。けれど残念ながら、個人に観測できる範囲って、すごくせまい。他者の痛みなんて、なかなか目には見えないし、その人がどういうアイデンティティーやバックグラウンド、あるいは病を抱えているかを、正確に想像することは不可能だ。

 しかし、物語という場所では、それができる。主観という牢獄を抜け出して、他者のこころや人生を、観測し、なぞることができる。なぜならここは、自分ではないだれかの痛みやさけびが、断面になってならべられた場所だから。つまり物語とは、断面のつらなりといっていいかもしれない。

 読者は、ここで得たなにかを、現実に持ち帰ることができる。まずは自分自身のために。余裕があったら、すぐちかくにもいるであろう、孤独なだれかのために。

 物語には、それだけの力があるということを、著者はなにより信じているのだろう。だからこそ、ちょっとした範囲に潜む、ちょっとした人々をモチーフに、そのこころの断面を、こうも綿密に描いてみせたのではないか。

 それを裏付けるかのように、本作には多くの物語が、敬意を持って引用されている。どれがどの配信サービスにあるのかも、一覧にしてほしいくらいだった(うそです)。

 本作はエモい。爆エモい。うそ偽りのないエモさだ。

 なぜならここには、ちいさくて、だいじな、わたしたちひとりひとりのこころの断面が、みっちりと詰め込まれているから。そしてそれらが、簡単にはつながりあえないこと。そのうえで、「だけど、つながっている」という事実も、さりげなく描いてくれている。その真摯さに、マイノリティのひとりとして、すごく励まされた。

 こころって、だいじだ。動かすのも、動かさないでいるのも、大変だし、見つめるのも、目をそらすのも、命がけだ。

 だからこそ、エモさへの欲求が、インスタントになっているのもわかる。ただでさえみんな、疲れているしね。使うよな、エモ書体。エモフィルター。エモい音楽。かんたんでないと、娯楽なんてたのしめない。だって生活が大変すぎるもん。

 でもやっぱり、手放してはいけないものがある。めんどうでも想像しつづけて、こころを動かしつづけなくてはいけない理由がある。容易ではないからこそ、得られる、とてもちいさなもの。

 おおきなものたちが、つねに鼻をきかせて付け狙っている、この世でいちばん尊いもの。

 それはわたしたちの、人生そのものといっていい。

 なんかお説教みたくなっちゃった。でも本当に、読んだあと、そう思えたの。

ポプラ社
2022年8月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

ポプラ社

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