『ロシア的人間』
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【ロングセラーを読む】『ロシア的人間』井筒俊彦著
[レビュアー] 花房壮(産経新聞社)
■「怪物」の正体に切り込む
ウクライナ戦争が始まってから半年が過ぎたが、ロシア国内で厭戦(えんせん)機運が高まる気配はそれほどない。戦線は膠着(こうちゃく)し、ウクライナの無辜(むこ)の民が日々犠牲になっていく。何のための戦いなのか。戦争を終わらせる方策はないのか-。
ロシアの人々の思考や精神を読み解く手がかりを求め、手にした一冊が『ロシア的人間』だ。著者の井筒俊彦(1914~93年)は東洋思想と言語哲学を専攻した世界的な学者として知られる。19世紀ロシア文学を通じて、その精神の古層に迫る本書は東西冷戦初期の昭和28年に刊行。その後復刊を繰り返し、今年7月に新版として復刊。根強い人気のロングセラーだ。
「今やロシアは世界史の真只中に怪物のような姿をのっそり現して来た」-。本書の第1章の冒頭部分だけ読めば現在の状況と錯誤しそうで、いきなり引き込まれる。そんな本書は全14章構成で、1~4章は異民族に長らく支配されたロシア人の精神史形成の流れを俯瞰(ふかん)。残りで、19世紀ロシア文学の嚆矢(こうし)と位置づけるプーシキンから掉尾(ちょうび)を飾るチェーホフまでの作家論を展開する。総論と各論を通じて「ロシア的人間」の輪郭がつかめる書きぶりだ。19世紀ロシア文学の特徴についても「一日中太陽の光の射し込まぬ薄暗い部屋の臭いがする」と表現するなど、独自の比喩が随所に盛り込まれ飽きさせない。
井筒の描く「ロシア的人間」とはどんな人なのか。「ロシア人はロシアの自然、ロシアの黒土と血のつながりがある。それがなければ、もうロシア人でも何でもないのだ」と。その上で、西欧的文化への熱望と憎悪・反逆という相反するロシア独特の態度を指摘し、「こういう国では西欧的な文化やヒューマニズムは人々に幸福をもたらすことはできない」と断じる。今回の戦争の底流にあるロシア側と米欧側の“断絶”の一端と読めなくもない。
けた外れの呑気(のんき)さ、自由への渇望、激しい怨恨(えんこん)…。指摘される数々のロシア人気質の中で印象的なのが、熱狂的な信仰だ。
「この国では、『父なる皇帝(ツァーリ)』を戴く専制政治や、さもなければ唯物論が、堂々と神の王座にすわることができるのだ。ここではマルクスが、救世主の姿で熱狂的に迎え入れられたのも無理はない」
であるならば、ソ連崩壊後のロシアの人々は今、何を“信仰”の対象としているのか。(中公文庫・1210円)