『人間通』
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【ロングセラーを読む】『人間通』谷沢永一著
[レビュアー] 花房壮(産経新聞社)
■「その話は聞いてない」と激高…日本人に根回しが必要な理由
人はなぜ、「その話は聞いてない!」というときに猛然と怒り出すのか。NHK連続テレビ小説「らんまん」を見ていたら、造り酒屋の跡取りとなる本家の娘が奉公人と結婚すると知った分家側が「聞いてない」(せりふは土佐弁)と激高するシーンがあり、印象に強く残っている。
冒頭のような疑問がわいたとき、よく参照する本がある。日本近代文学に精通し、本紙正論メンバーでもあった関西大名誉教授、谷沢永一(1929~2011年)の『人間通』だ。平成7年発行で新旧両版あわせ28刷、累計発行部数は約37万部。
吝嗇(りんしょく)、臆病、悪口、嫉妬、羨望といった人間の性質や情念など100近いテーマを収める同書をめくると、まさに「聞いていない」という項目が見つかる。そこで谷沢は「なんらかの組織に属する我が国びとが、猛然と腹を立てる最も普遍的な情景」こそが「私はまだ聞いていない、と怒りだす場面」であると指摘する。
では、なぜそんな状況で人は怒りだすのか。「日本人は常に仲間のひとりとしての座を確保していなければ気が済まない。この場合の仲間とは情報を共有している関係であり、それを確認して安堵(あんど)している自己満足が生き甲斐(がい)なのであろうか」。つまり、のけ者にされたこと、皆の前で恥をかかされたことで猛然と怒り、さらにその怒気は復讐(ふくしゅう)心になり、当該話の妨害行為にまで及ぶのだ。根回し不足の代償は高くつく。
過剰な根回しが会議の形骸化を招く-などと言われながらも、日本の組織でせっせと根回しが行われるのは、相手の面子(めんつ)への配慮だけではない。谷沢はその積極的な意義をこう喝破する。「その人の自覚を高め遣(や)る気を起こさせる手立てである。人を心の底から喜ばせる素晴らしい措置なのである」と。根回しには時間がかかるため、緊急時には不適切な場合もあるが、関係部署間を回るうちに案件の課題が洗い出されるというメリットもある。いずれにせよ、組織内コミュニケーションの一つとして、小まめに行われる根回しの効用はもっと知られていいはずだ。
全体を読む前に、谷沢の基本的な考えを凝縮した最初の項目「人間通」は押さえておきたい。人間が最終的に欲するのは「世に理解されることであり世に認められることである。理解され認められれば、その心ゆたかな自覚を梃子(てこ)として、誰もが勇躍して励む。(中略)社会の活力が増進し誰もがその恵みにあずかる」。人間のたぎる情念を、どう良き方向に流し込むか。「他人(ひと)の気持ちを的確に理解できる」人間通が今、最も求められるゆえんだ。(新潮選書・1430円)
評・花房壮(文化部)