「値上げ」と「円安」が続く日本……このままで大丈夫? ドイツの歴史を知ると怖くなるハイパーインフレの悪夢

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物価高と通貨安の先に何があるのか

[レビュアー] 川田晴一(ジャーナリスト)


貨幣価値の下落と物価の上昇が限度を超えたとき日常はどうなるのか?(写真はイメージ)

2011年に刊行された書籍『ハイパーインフレの悪夢―ドイツ「国家破綻の歴史」は警告する―』が再び注目されている。100年前、ドイツが破綻するまでの末路を描いた本作に関心が集まった理由は、日本の貨幣価値の下落(円安)と物価の上昇が止まらないからだ。

当時のドイツも第一次世界大戦の敗北後であるとはいえ、貨幣価値の下落と物価の上昇からハイパーインフレに発展し、社会秩序が崩壊した。通貨安による好況も束の間、深刻な物価高騰が庶民の生活を襲ったドイツの混乱を描いた本作の読みどころを、ジャーナリストの川田晴一さんが解説する。

川田晴一・評「物価高と通貨安の先に何があるのか」

「安いニッポン」が一転、値上げが止まらない。

 ロシアによるウクライナ侵攻以降しばらくは原材料の高騰が原因だったが、最近では円安による輸入コスト増が大きな要因となっている。ウクライナ情勢が膠着し、円安の傾向も日米の金利差が拡大する限り続くとみられるため、物価高と通貨安というトレンドはしばらく変わらないだろう。複雑な要素が絡まり合い、かつてないスピードで進行する事態を前に、エコノミストなど専門家もセオリーを適用できず、メディアは事態を追いかけるのに必死だ。

 政府は物価高対策として、大規模な財政支出を続ける。税収で足りない分をまかなう赤字国債(つまり借金)の額は1970年代後半から増加し続け、コロナ対策で爆発的に増えた。紙幣を刷ることで危機から脱するという戦後日本の“信仰”は強まるばかりだが、貨幣価値の下落と物価の上昇が限度を超えたとき、わたしたちの日常はどうなってしまうのか。身震いするほどの生々しさで記された歴史ノンフィクションが本作だ。

 今から100年前、第一次世界大戦に敗北したドイツは、税収で財政支出をまかなえず、大量の国債を発行した。通貨安で輸出企業はうるおい(今の日本でも、たとえば商社は円安、資源高、インフレを追い風に史上空前の好決算となった)、失業率は低下、株式市場も活性化するが、やがて深刻な物価高騰が庶民の生活を襲う。

 ジャーナリストの池上彰氏は本書所収の解説でこう書く。

〈インフレの扱いのむずかしい点のひとつは、緩やかなレベルであれば、経済が活性化することです。その甘い香りに誘われると、いつしか後戻りできなくなるからです〉

 ハイパーインフレに突入したドイツでは失業と破産が増え、かつてはヨーロッパで最も法を尊んでいた国民からモラルが失われていく。それは緩慢な死のように、ゆっくりと進行した。

 作家のパール・バックが書き留めたひとりの女性の声が紹介されている。

〈そのあいだには、マルクの下落が止まるかに見えた時期もあって、そのたび、わたしたちは希望を抱きました。口々によくこう言ったものです。「最悪の事態は過ぎ去ったようだ」そんな時期に、母は〔貸していた数軒の〕家を売りました。いい取り引きができたと思っていたようです。買ったときの2倍の値段で売れたのですから。でも、母が買った家具の値段は、5倍に値上がりしていました。(中略)最悪の事態は過ぎ去ってはいませんでした。ほどなく、またインフレが始まりました。以前よりも激しいインフレで、母や何百万人もの人々の貯蓄が、少しずつ飲み込まれていきました〉

 若き日のアーネスト・ヘミングウェイは《トロント・デイリー・スター》の特派員としてフランスからドイツに入り、悲惨な状況を伝えていた。それによると、〈わたしは昨年の7月に、1日600マルクで妻と豪華なホテルに滞在した〉が、1年経たない1923年4月にシャンパンは1本3万8000マルク、サンドイッチは900マルク、ビールはジョッキ1杯350マルクになっていた。やがて物価は時間単位で上昇するようになり、1杯5000マルクのコーヒーが飲み終わったときには8000マルクに。やがて10万マルク紙幣が発行された3週間後に100万マルク紙幣の発行が準備される事態となる。

 生活が立ち行かなくなれば、社会不安が増大するのも無理はない。ありとあらゆる対立が噴出するなかで、ひとびとはどう行動し、社会はどう崩壊していったのか。やがてヒトラーの登場につながる負のスパイラルを、著者のアダム・ファーガソンは同時代を生きた人の日記や報道、外交資料を縦横に駆使して描き出しているので、ぜひ追体験してほしい。

 縦糸となるのは、イギリスの駐ドイツ大使が事態の推移を冷静に観察・分析し、本国に送り続けた報告書だ。ファーガソンは英ケンブリッジ大学で歴史学を修めたのち、タイムズ紙などで健筆をふるったジャーナリストだが、欧州統合にも深くかかわり、英外務省の特別顧問、欧州議会の議員も務めた。本作が史実を丹念に収集しながら、学術書ではなく、スリリングな読物になっているのは、著者の素養と問題意識、そして経験によるところが大きい。

 本作は1975年にイギリスで刊行され、その後、しばらく絶版になっていたが、2010年、投資家ウォーレン・バフェット氏が「必読書」として推薦したという噂がきっかけとなって、古本市場で最高で1600ポンド(日本円にするとおよそ21万円)の値が付いたという。復刊後も好評で、英米では「埋もれた名著」として数多くの高評価を得ている。日本でも2011年の刊行以来、増刷を重ね、この10月にも重版出来となったそうだ。伝説のトレーダー・藤巻健史氏が「歴史が『生き抜く術』を教えてくれる」と評するように、先が読めない今こそ羅針盤となってくれる一冊だろう。

新潮社 波
2022年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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