〈増野ではなく升野でも舛野でも桝野でもない枡野なんです〉

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〈増野ではなく升野でも舛野でも桝野でもない枡野なんです〉

[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)

 白地に「こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう」という短歌がプリントされたTシャツを持っている。作者は枡野浩一。普段詩歌に親しまない層にまでその魅力を伝え、現在の口語短歌ブームを生んだ立役者は俵万智と穂村弘とされているけれど、枡野浩一の功績も絶大だ。1997年に歌人デビューして以来、短歌ばかりか作詞や漫画評も手がけ、2006年には佐々木あららと共同で執筆した青春小説『ショートソング』が大評判を呼んだ。CMやバラエティ番組に出て、舞台に役者として立ち、2013年以降は芸人としても活動している。多芸多才多動にもほどがある活躍によって、多くの人に短歌の面白がり方を伝授してきたのだ。

 誰しもが生きていく上で抱え込んでしまう哀しみや淋しさや憤りや不満。そこから生まれる溜息や愚痴、反語、「それでもいい」とする前向きな諦念を三十一文字にのせてみせるのが、枡野はとりわけ巧い。

〈ついてないわけじゃなくってラッキーなことが特別起こらないだけ〉〈「元気です」そう書いてみて無理してる自分がいやでつけくわえた「か?」〉〈「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉〉〈ただ胸を張っていきたい そのためにまだ必要なうつむきかげん〉〈私よりきらきらさせる人がいる 私がやっと拾った石を〉

 難しい言葉は使わない。だから一見、誰でも詠めそうに思えるけれど、一首一首じっくり味わうと、「ここにはこの言葉しかない」「この語順だから胸に届く」ことがよくわかる。枡野浩一は易しい言葉の達人なのだ。有名になる前に〈増野ではなく升野でも舛野でも桝野でもない枡野なんです〉と詠んだ歌人の全作品が読めるこの本の中には、あなたの今の気持ちに合致する歌が何首も見つかるはず。口ずさめば、少し心が軽くなる歌に出合うことができるはず。一家に一冊と薦めたい本なのだ。

新潮社 週刊新潮
2022年12月29日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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