『おやじはニーチェ』
書籍情報:openBD
<書評>『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』 髙橋秀実(ひでみね)著
[レビュアー] 逢坂剛(作家)
◆温かい交情に泣き笑い
本書の著者は、自分がおもしろいと感じたテーマを、独特の語り口でとことん追求せずにはいられない、生来の徹底凝り性型のライターだ。
もっとも本書は、これまでといささか執筆動機を、異にする。このリポートは、父親の認知症と取り組む著者自身の心情を、不謹慎ながらもおもしろおかしく、そのくせきわめて律義な筆致で書き綴(つづ)った、介護記録なのだ。むろん、介護には体力と心労がつきものだが、それを自分なりに昇華させるためには、こうしたやり方しかなかったに違いない、と納得させられる。著者は決して、この介護を単なる苦労話や美談には、書いていない。むしろ、ときとしてうんざりしたり、父親に怒りをぶつけたりするさまを、隠さずに書く。それにもかかわらず、認知症をはさんで向き合う父親と息子の、言うに言われぬ肉親同士の温かい交情が、全編にあふれている。父親への、愛情と諦念がないまぜになって迫り、その葛藤につい笑い泣きさせられるのだ。さらに、著者の作品にかならず登場するエミちゃんこと、栄美夫人が本書では冷静な妻として、嫁として、活躍する。いわば、介護される義父と介護する夫を、二人ながら介護して後見に努めるさまが、いかにも頼もしく美しい。
ついでながら、本書には古今東西の著名な哲学書から、さまざまな文言が引用されている。いわくアリストテレス、ヘーゲル、ニーチェ、九鬼周造等々。その意味では、これは介護記録の形をとった哲学入門書、といっていいかもしれない。ともかく、ここに描かれた認知症の父親と、介護する息子夫婦との交流は涙と笑いに満ちて、一読巻を措(お)くあたわざるものがある。認知症ながら無邪気そのものの、愛すべき父親の静かな死は、著者夫妻とともに読む者に粛然たる哀惜の念を、呼び起こすに違いない。願わくは、新潮社のPR誌『波』の本年二月号に寄せられた、栄美夫人の本書への推薦文(!)、『「クソおやじ」へのオマージュ』も、ぜひ一読されるようお勧めする。
(新潮社・1815円)
1961年生まれ。ノンフィクション作家。著書『道徳教室 いい人じゃなきゃダメですか』など。
◆もう1冊
髙橋秀実著『損したくないニッポン人』(講談社現代新書)