下宿を転々とする十年間が飄々と綴られる

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井伏鱒二全集〈第11巻〉侘助・引越やつれ

『井伏鱒二全集〈第11巻〉侘助・引越やつれ』

著者
井伏鱒二 [著]
出版社
筑摩書房
ISBN
9784480703415
発売日
1998/08/01
価格
6,600円(税込)

書籍情報:openBD

下宿を転々とする十年間が飄々と綴られる

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 書評子4人がテーマに沿った名著を紹介

 今回のテーマは「引越し」です

 ***

 持家、いわゆるマイホームが広まるのは戦後。戦前の庶民の多くは貸家に住んだ。貸家だから気軽に次に引越しすることが出来た。

 学生など下宿を転々とした。井伏鱒二『引越やつれ』(昭和二十三年)は大正時代、広島県から東京に出て来た「私」が引越しを繰返すさまを描いた、いわば引越し放浪記。

 早稲田大学に入学したから「私」の下宿は早稲田界隈。学生時代の五年と、やめてからの五年。都合十年間、下宿を転々とした。

 はじめての下宿は早稲田大学の正門前の西南館。ところが引越し直後、二百二十日の大風で神楽坂の三階建ての下宿屋が倒壊し、三人の学生が即死した。

 西南館も壊れた。それでより頑丈なところへ引越す。友人のいる本郷動坂の素人下宿。ところが家主の米の相場師が、商売に失敗して夜逃げすることに。「私」も行動を共にする。

 次の下宿は雑司ヶ谷の鬼子母神近くの高田館という下宿屋。隣りの大邸宅の住人から騒音の文句が出て、嫌気がさし、また引越し。

 今度は牛込鶴巻町の寡婦が営んでいる素人下宿。主人は気のいい女性なのだが隣りの部屋の止宿人に問題あり。火渡り、刃渡りを見世物にしている香具師のような御仁。

 無神経な男で馴れ馴れしく「私」の部屋に入り込んでくる。勉強が出来ない。

 ついにこの男から逃げるようにまた引越し。井伏鱒二らしい飄々とした文で綴られているので、度重なる引越しもどこか楽しそう。

新潮社 週刊新潮
2023年3月16日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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