田中さんの小説を長年愛読していた宇佐見さん。『共喰い』と『推し、燃ゆ』、一見対照的な二人の芥川受賞作家の初対談。

対談・鼎談

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流れる島と海の怪物

『流れる島と海の怪物』

著者
田中 慎弥 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087718379
発売日
2023/06/26
価格
2,145円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

田中さんの小説を長年愛読していた宇佐見さん。『共喰い』と『推し、燃ゆ』、一見対照的な二人の芥川受賞作家の初対談。

『源氏物語』を含む日本文学の伝統を素地として海外文学の影響を滲ませ、大胆に変奏しながら文学界を牽引する田中慎弥氏。この七月には故郷・下関が舞台の新作『流れる島と海の怪物』を刊行したばかりだ。
田中氏がその才能を絶賛する宇佐見りん氏は二〇一九年、二十歳のときに『かか』で文藝賞を受賞してデビュー、翌年同作品で三島賞を受賞。また、芥川賞を受賞した二作目『推し、燃ゆ』は五〇万部を超えるベストセラーとなるなど、今もっとも注目される作家の一人である。
その宇佐見氏は、実は田中氏の小説を長年愛読していた。
作家として、またそれぞれの読者として、”強靭”な文体を持つ二人が初めてじっくり語り合った。

構成/長瀬海 撮影/露木聡子

手放しながら小説を書く

田中 宇佐見さんはデビューして、もう四年ですか。
宇佐見 四年目になります。あっという間でした。
田中 デビュー以来、怒濤のようにご活躍されているのを拝見していて、すごい小説家が現れたな、と思っていました。第一作の『かか』で三島賞、二作目の『推し、燃ゆ』では芥川賞を受賞されて、しかも受賞当時、大学生だという。宇佐見さんのこれまでの作品を読んでまず驚かされたのは、文章のリズムです。宇佐見さんは音読ってしますか?
宇佐見 田中さんにそう言っていただけて本当にうれしいです。音読はしますね。とくに冒頭や最後など、自分で覚えられるくらいには繰り返し声に出して、チェックします。
田中 でしょうね。例えば、『かか』の次の一節。「腫れたそいを爪でつぶすと、かかは『搔かんよ』と後ろから注意して、葬儀用の黒こい鞄(かばん)からムヒ出して塗りました。」一読して、これは音で書いてるな、という感じがしたんです。『推し、燃ゆ』もそうです。「学校で使えるものは感想をメモする用のルーズリーフとペンくらいだったので、古典を見せてもらい数学を借り、水着もないので水泳の授業はプール横に立った。」ひと息で行ける、この感じ。私は文章のリズムを作るのが苦手なので、素直に羨ましかった。まずは音で書き、それから読みづらいところを直していく、という具合に執筆されていますか?
宇佐見 そうですね。引っ掛かるところを直していくという感じです。正しい文章は、見つけることは本当に難しいけれどどこかにあると思っていて、いつも探しています。私も田中さんの作品はずっと拝読しています。高校生の頃、芥川賞受賞作品を読破することに挑戦したことがあったのですが、その際に『共喰い』を読んで、そこからデビュー作のほうに遡りました。私も田中さんの文章が好きで、硬派な文体が魅力的だと感じています。一行一行探り当てるように書いていると以前おっしゃっていましたが、それがわかる文章と言いますか。前の文章と次の文章が嚙み合いながら繫がり、一つのうねりを作る。それが読んでいてとても心地よくて。だから、田中さんがリズムを作るのは苦手だというのは驚きです。
田中 以前、ある人がワンセンテンス思い浮かべてから書け、と言っていたのですが、私はどうもそれができない。私は手書きなので、鉛筆を持ち、紙に触れるか触れないかぐらいの瞬間に、考えていることが鉛筆を握る手に伝わって、筆先が動く、という感じなんです。本当は文章を書く上で、目標を定めて、文体を決め、プロットを緻密に組んで、そこを目掛けて書くのが良いのでしょうけど、私には無理なんですよ。そういうものを細かく設定して書くタイプではありませんから。宇佐見さんはテーマを決めますか?
宇佐見 テーマは決めますが、自分が書こうとすることを決めすぎないようにはしています。物語を都合よく動かさないように意識しながら書いています。ただ私がこれまで書いているのは中編小説なので、長編をどう書けばいいのかはまだわかっていないかもしれません。探りつつです。
田中 長編は私もよくわからないんです。というか、向いていないと自分では思っています。田中は長編が向いていると言った人が一人だけいて、それは石原慎太郎さんでした。生前、田中の持っている要素は長編のほうが生きるんじゃないかとおっしゃったことがありましたが、当たってはいないと思います。まぁ、石原さんも長編は苦手だったと思うけど。
だから短編の方が私は向いているんですよね。そうは言っても、長編を書けなきゃ作家じゃねえだろ、と思う部分もあるし、他の作家と話しててプロットの組み方なんかを聞くと、なるほど、と思わされることもある。でも、自分なりに人物の相関関係、物語の展開なんかを考えていくと、次第につまらなくなってしまう。だったらもう書くしかねえだろ、と思いながら原稿用紙に向かうのが常です。
宇佐見 長編が苦手なのは意外ですが、田中さんの短編は確かに、はっとするようなラストなど印象的で、洗練されていますよね。私は、プロットはがっちり固めずに大枠だけ決めるタイプです。ただ、割と小説のラストを最初に決めて書くことが多いですね。『かか』は最初の場面と最後の一文をパッと思いついて、これだ、と思って書きました。三作目の『くるまの娘』もクライマックスの場面と、小説のラストが既にある状態から書き始めました。最後の場面は付け足しに思えるというようなことを、ある文学賞の選評で言われたんですが、むしろ私が一番書きたかったのはあそこなんです。いくつかの、自分にとって本当に大切な場面のために、この小説があったなと思っています。『推し、燃ゆ』だけは違っていて、書いているうちに中盤が出来上がり、そこから終盤を思いつきました。
田中 私も大枠だけ決めて書くようにしています。なんというか、よし、書くぞ、という感じで書いたりはしないんです。何かを獲得するというよりは、手放すというか。
宇佐見 手放す、ですか。
田中 はい。結局、ああだこうだと考えてみても、一行書くときはその一行しか書けないので、他の何億だか何兆通りだかの文章は捨てて、その一行だけを書いていくわけです。そうすると、それはあらゆる文章を手放していることになります。もうこれを書かなきゃしょうがない。これをという、その「これ」も書いてみなければわからない。そういう何もかもが不確かな状況のなかで、足掻(あが)くように書いている感覚が私にはあります。だから、「作者が意図していない良さが出ている」という言い方があるけど、こっちは何かを捕まえたくても捕まえられないんです。意図とか核の部分とか、そういうのを捕まえようとしても逃げられてしまう。手のなかに何もない状態が最後に残る。しっかりとした身体じゃなくて、何かが逃げた跡、獣の足跡のようなものだけが残る。それが文章なんじゃないかという感じがすることが私にはあります。
宇佐見 なるほど。難しいですが、何億通りかの文章を捨てている感覚になることは、あるかもしれません。一つの行を描写したあとの続きがあまりにも膨大で、故意に書き落とすこともできるし、どれを書いてどれを書かないか、選択に迷うことも多いです。田中さんの文体はどこか古風な雰囲気を纏っていて、私の好みとしては、どストライクなんですが、そう感じる理由を教えてもらった気がします。

なぜ家族を描くのか

田中 宇佐見さんの『かか』は巡礼がテーマですよね。『推し、燃ゆ』はアイドルとオタクの物語ですが、「祭壇」という言葉が出てくるように、宗教的な意味合いが読み取れる小説です。これはいろんなところで指摘されていることでしょうが、アイドルグループの「まざま座」のリーダーが明仁で、「推し」の誕生日が八月十五日。決定的なのは、「アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。」という文章。三島由紀夫の「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」を想起させます。『くるまの娘』も無理矢理こじつけると、生まれなかった子どもや亡くなったおばあちゃん、つまり、この世のものでないアンタッチャブルなものに対して、右往左往している、決してかっこよくはない人たちの姿が描かれている。この解釈は違うのかもしれませんが、全部がフラットになり、相対化されているこの世のなかで何かそうじゃないものを求めながら、そこに決してたどり着けない、そんな人間が書かれているような気がします。そういうことは意識しましたか?
宇佐見 ええ、三作目についてはまた別かもしれませんが、一作目、二作目では、題材として取り入れてはいますね。しかし、私はどちらかというと、今おっしゃったこと、とくに魔術的なことに対しては、否定する形で小説を終えているつもりです。それは、私が自分の短い人生経験から、「合理的なもの」は、どのような道筋をたどっても認めざるを得ないという結論を得ているからかもしれません。それは例えば、「死」が、他の何ものでもなく終わりであり魂は存在しないということや、私自身大好きでいつも一緒にいるぬいぐるみは本当は布と綿とビーズであること、小説は実人生を凌駕しないこと、などです。どの小説でも、最後の最後でそういった信仰に近いものを肯定するのは難しい、という気持ちを込めたつもりです。作者が自作についての読み方を決めつけるようなことはあまり言いたくはないのですが、私は「祈り」よりももっとずっと直接的・即物的なものを書きたいと思っています。槍を持って人が自ら突き刺したものを食べているとき、これは自分の腕で食べ物を獲り、それをそのまま食べているので直接的な行為ですよね。でも、それが弓矢になった瞬間に、空間が生まれます。弓を引いて矢を射る。その矢が飛んで獲物に刺さる。そこでは肉体の動作から獲物を捕らえるまでに間があって、直接的ではない分、祈りや呪術的なものが入り込む余地が生まれるんだと、どこかで読んだことがあります。私はそういった祈りの部分をいったんは書きつつも、結局は自分で獲って食べることの信頼性を大事にしたいと考えています。直接的に殴る・殴られるということの前では、頭でっかちなものは通用しないんじゃないかと思っているので、それが作品に表れているのかもしれません。
田中 そうか、確かにその肉体的な感覚というのが、親子関係という主題に繫がるのかもしれませんね。私も親子や家族の話を書くことが多いんですが、そういう話を書いていると、なぜ家族の物語を書くんですか、と聞かれませんか?
宇佐見 聞かれますね。
田中 なぜって聞かれても、書くしかないから書いてるわけで、読んでくれればわかるのに、と思ってしまいます。家族というのは非常にありがたくもあり、厄介な問題としてずっと昔からあります。家族の形はどんどん変わっていくし、一度落ち着いても、また家族の意思によってその在り方が変化する。ステレオタイプな親子関係の像がある一方で、家族は変容しているし、変容しても結局、家族からは逃れられない。だけど、私は、逃れられないからといって、それを絶望的なものとして描いているわけではなく、かといって、明るい何かを意図的に提示したいわけでもない。単に家族関係のなかにいる人物の行動を描いているだけのつもりです。
だから、私も家族の厄介な部分、嫌な面を書いてきたことにはなるんですが、それはそうとしか書けなかったからです。家族のもっと良い部分をポジティヴに提示したっていいのかもしれないけど、私の場合はどうしても自分の体験を持ち出さないと書けないところがあるので、仕方ありません。とはいえ、私小説を書いているわけではないのですが。
宇佐見 「家族関係のなかにいる人物の行動を描いている」のは、とてもわかります。私もなぜ家族をテーマに選んだのですか、とよく聞かれますが、私はそもそも他者を書こうというときに、数か月や数年、過ごしただけの人のことは書きようがないと思っているんです。ちょっと知り合っただけの人や、学校や部活など分厚いペルソナありきの関係には殆ど興味が持てなくて、「いい人だな」と思ったままでいたいというか、相手の本性はあまり知りたくなくて。知ると離れたくなるので浅い関係でいいし、本音(ほんね)では嫌われても態度に出ていなければ問題ないという考えです。自分自身、外へ出す情報が内面とは大きく異なるからかもしれません。恋愛も、十年以上一緒にいる人たちは別として最初は自分をよく見せるでしょうし、互いに理想化もされますから、小説で偏見なく人物を書くには不向き、相当うまくやらないとのっぺりした似たり寄ったりの人物になって危険なんじゃないかと思っていますし、実際、そういうことになってしまっている歌や小説や映画も多く見かけます。すべてを知っているわけではなくても、何年も一緒に過ごすとか、利害を除いた関係になって初めて、その人が仮面をかぶっていようと何を心がけていようと、行動ににじみ出てくる「何か」が得られると思っていて、その情をもって小説を描きたい。『かか』に出てくる母親なんか、困ったところも多いですが愛嬌があり、作者にとっては愛おしい人物です。他者を書くときに、生まれたときから長い時間を一緒に過ごしている関係性、そういう人のありようのほうが、信頼できるんです。ほかのどの人物も、本当に嫌いな人を書くことはないですね。
私は中上健次さんが好きなんですが、中上さんの作品では姉が凄まじいリアリティを持って描かれています。薄い知り合いではない、利害関係がない、「本当の他者」だと思うんです。その他者が作品のなかですごく生きていて、困った部分も美点も何もかも、理想化はせず、小さくも大きくもせず、「情」を持って描かれている。私はそれに感動して自分でも小説を書いているところがあります。もちろん他者を完全に描き切るということはできませんが、小説に登場する人物の像というのは、その人の人生と向き合って書くなかで初めて決定づけられるものだと思っています。私が家族を描くことが多いのは、わざわざその題材を選んだというよりも、逆に家族以外のものにこれまであまり興味が持てなかったからなのかもしれません。それ以外に、本当の「情」を持って書ける相手がいない、自分の持つ熱量で描けなかっただけというか。
田中 よくわかります。私も家族から離れた小説を書かなきゃいけないとは思うのですが、どうも難しいんですよね。家族から離脱しようとしたときに、どう離脱するかをまずは考えなければならないので。

近影
田中慎弥さん

言葉は怖いもの

宇佐見 田中さんの小説の感想に移らせてください。この『流れる島と海の怪物』を二十ページほど拝読した時点で、あまりに面白くて他誌の担当編集者さんに思わず、これはすごい、絶対に読まれなければならない作品です、とメールを送ったほどに興奮しました。とくに小説を書いている人間として驚かされたのは、細部を描く際の順序です。例えば、小説の前半には、作中の舞台である下関と北九州市を隔てる関門海峡に浮かぶ不思議な島から、本州へやってきた仕出し屋の青年の逸話が語られています。彼は巧みな配達技術で地域の名物となるのですが、ある日、突然倒れ、そのまま死んでしまう。その描写にあたって、まず、配達している空の器の塔が崩れた音について書かれ、それから誰かに呼び止められて彼が倒れたことが語られる。そして、遺体には傷が走っていたことが告げられ、彼が島の住民であるがゆえに差別を受けていたことが明かされる。この語りの順番に小説家としての技術を感じて、学びになったというか。
田中 確かに、そこはずらして書いた自覚はありますね。
宇佐見 わざと逆転して書いている部分があちこちにあって、見つけるたびに新鮮な驚きを覚えました。他にも、主人公の慎一と仲睦まじい関係にあった、やはり島にルーツを持つ姉妹の朱音(あかね)と朱里(あかり)が、父親でもある、慎一たちの住む街の有力者の古坂山源伊知(げんいち)に家へ乗り込まれ、酷い目にあわされる場面。源伊知に殺意を覚えた妹の朱里が咄嗟にソファーを持ち上げようとする。彼女は、重くてなかなか動かせないと感じた段階で、ようやくそれがソファーだと気づいたと言います。些細な場面ですがここでも順序が巧く反転されていて、リアリティがありました。
細部だけでなく、小説の作り方にも驚かされました。小説はファウルフライを捕球しようとして亡くなった父親を思い出す慎一が、「それがもしセンターフライだったら何事も起らなかったかもしれない」と考える場面から始まります。そこから、福岡県の小倉には原爆が落とされる計画があったものの、天候が悪く落とされなかった、そのことは偶然なのか必然なのか、と語られる。その繫ぎ方が面白くて、全然違う話をしているんだけど、語られていることが大きくなったり小さくなったりして、いろんな話がザーッと勢いよく進み、さらに読んでいくと、後年、作家になった慎一と朱里がメタ的に出来事を語る会話文が挟まれる。朱里の言葉は女性として共感するものもあれば、小説家に対する厳しい意見として、ひやっとさせられるものもあります。田中さんは『宰相A』もそうですが、作家が出てくる小説をよく書かれますね。小説には、物語が一次元的に書かれている小説と、物語の物語が書かれている小説があると思います。後者の場合、物語の物語を描こうとすると、合わせ鏡みたいに、物語の物語の物語の……となって、前者とはだいぶ異なる作品になるはずです。田中さんが小説に作家を登場させるきっかけは何だったのでしょうか?
田中 第一に、苦肉の策だったという事情があります。どんどん書くことが狭まってきて、自分でも作家としてなかなか難しいところに来たな、と感じていたりします。それと、今、これだけSNSとかAIとかが社会を賑わしているでしょう。そんななかで私は手書きでカリカリと文章を書いて発表するということをしている。でも、書くという行為において、それでいいのか、という思いが自分にあるんです。極端に言うと、AIを使って書くほうが誠実だと思われる世界が目の前に来てるんじゃないか。そんななかで作家とはどういう位置付けをされるのか。そう考えながら私は作家として足搔いているんです。
でも、大きな世界で一人、なんでだ、なんでだよってジタバタする姿を描くのが小説なんだと、どこかで思ってもいます。だから、本当はもっと完全なフィクションを描かなきゃいけないのはわかっていながら、自分という存在を小説から切り離せていないんです。これでいいわけがないとわかっていながら、そう書かざるを得ない自分がいる。だから、あまりメタとかそういう難しいことを考えて書こうとしているわけではないんです。作家として足搔くと言いましたが、私には言葉を生み出しているという感覚はありません。皮膚を切れば血が出てくるのとは違って、言葉は自然に出てくるものじゃない。私にはどこか言葉が借り物のように思える感覚があるんですよ。
宇佐見 自然に出てくるわけではない、借り物のようだというのは、言語化したことはありませんでしたが、わかります。生み出すという感覚は全くなくて、言葉が湧き出てくるように文章を書ける人が羨ましいです。私は書きながら、自分のなかで言葉をひたすらジャッジしている感じがあります。正しい、正しくない、つまらない、みたいに。だから、私は言葉をうまく扱える人間ではないと自分では思っています。時間もかかりますし。
田中 私は原稿用紙で百枚ほどの作品を書くのに、二百枚ぐらい書いて、半分捨てたりします。私にとっては書き足すよりも、捨てていくほうが大事でして。文章っていろんなものがくっついていますから、捨てなきゃどうしようもないところがあります。作家というのは言葉を怖がりながら仕事をするものだと思うし、同時に、切るところは切っちまえ、と野蛮な大鉈を振るわなきゃいけなかったりもする。先輩の作家から、筆が乗ってきたら一度止めたほうがいいと言われたことがありますが、その通りだと痛感しています。
言葉は怖いものなんです。人を簡単に傷つけることができるし。それぐらい危険なものを扱っているんだという意識を持ちながら、作家は文章を書いていく必要があると私は思っています。さっきもAIの話をしましたが、言葉は誰でも使えるわけです。人間じゃなくても言葉を扱える、そんな時代になりました。私たち作家は、そんななかで書くことをし続けなきゃいけないわけだけど、それがうまく行かなくなる恐れもある。そういう不安を抱えながらやっていくしかないと私は思っています。

小説の終わらせ方

田中 先ほど宇佐見さんは終わりを決めて書くとおっしゃいましたが、私は毎回、終わり方がなかなか見つからないんです。終わりを決めてそこへ持っていくという方法も、なるほど、ありだなと思うんですが、私は書きながらこの辺りかなという具合にしか終わらせられない。あるいは、終わりの場面を書きながら、いや、この何行か前で終わらせたほうがいいんじゃないかと考えることもよくあります。始まり方も同じでいつも迷う。今度の小説も書き出しがいやらしい感じになっちゃって。
宇佐見 そうですか? 私はむしろすごく好きでした、あの書き出し。一行目からぐっと仕掛けている感じが伝わってくる、と言いますか。
田中 ええ。その感じがベタベタに出ている一行になってるでしょう。とりあえずそんな一行を置けば後から何かが出てくるんじゃないかと思って書いたのですが。毎回、小説の始めと終わりには頭を悩ませてしまいます。私は川端康成が好きなんですけど、終わってないんですよね、川端の小説って。
宇佐見 そうですね。わかります。
田中 ここで終わるのか、みたいな切り方がされています。それでいて投げやりでもない。特に『山の音』や『千羽鶴』なんかは、どこで終わってもいいような最後ですよね。さあ終わりですよと思わせることもなく、この後がまだありそうなところですっと消えていく。まるで未完であるかのような終わらせ方をするのが川端の得意技なんです。それが理想だとは言わないけど、はい、終わりました、みたいな大団円でケリをつけるのはどうだろうとは思ってしまいます。
宇佐見 私も『山の音』はとても好きな作品です。すーっと始まっていってしまうから、摑みどころがない。私はいつも小説を読むときは、どこを学べるだろうか、活かせるか、みたいなことを卑しくも考えてしまうのですが、あの作品は能の場面などをはじめ素晴らしい場面がたくさんあり過ぎて、どこがどう出来ているのか、まるでわからない。わからないうちに終わってしまった、そんな読後感だったのを覚えています。
田中さんは終わり方がわからないとおっしゃいますが、私は田中さんの短編の「蛹」の終わり方が素晴らしいと思っています。サッと切れて、唸ってしまうようなラスト。組み立てからして当然、「山椒魚」など踏まえているのだろうなと思いながら読み始めたのですが、ラストの驚きと哀愁は、独自の、田中さんにしか出せないものだと感じました。一文が長く殆ど改行もなく畳みかける文章は軍記ものの調子に似て面白く、かつ「虫」の視点であるので何を書いてあるのか予想がつかない、出てくるものや光景に人間はなじみがないので逐一文章から想像するしかなく、先が見通せないというのも、愉快な読書体験でした。その長くテンポのよい文章を、例えば「天に近い高みにいたとは思えないくらい死が板についていた」というように鮮やかに締める。あちこちに線を引きたくなるほど見事だと感じます。父が生まれながらに不在で、母への悲しみのにじんだ視線があり、視点人物(昆虫)がこもりがちになるという、田中さんの小説を何作か読んでいる者にとっては少し覚えのある構成が、よりリアルから離れた形での変奏となっていることで、読者側が型にあてはめずに正面から新鮮にその感情と向き合えると感じました。例えば「ひきこもり」という言葉で規定してしまわれることが多いなかで、半分土に埋まっている母の死骸を見て土のなかに戻りたくなる感覚は虫そのものの皮膚感覚からして納得できますし、「もう知っている」ものではないと、つきつけられたような作品でした。人間社会のいろいろな文脈にあてはめて考えることができる一方で、人間世界と完全に対応しているわけではなく、虫ならではの生命観や感覚もあるのが、この作品の面白さだと思います。
田中 ありがとうございます。逆に始まりの好きな作品にはどんなものがありますか?
宇佐見 始まりが好きな作品は、中上健次の『岬』です。もう何度も、声に出したかわかりません。「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえるほどだった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。」地虫の鳴く音が聞こえてくるところから始まっているのが、舞台の幕が上がったあとに入ってくるSEのようで、いいなと思います。自分がそう書いているかはさておいて、いきなり衝撃的な文章で始まるよりは、音から始まっていく作品のほうが好きかもしれません。ただ、新人なのもあって、自分の作品のことになると一行目で読んでもらえるかどうかを気にしてしまいます。読んでくれる方が増えるまでは、一行目で閉じられたら、もうあとがないというか。
田中 最近は一行目で摑まなければならないんですよね。一行目でわかるわけなんてないのに。映画も同じで、最初から思いっきりやらないといけない。
宇佐見 本当は宮本輝さんの作品みたいに始めたい気持ちがあるんです。宮本さんの初期三部作のように情景から入っていけるような作品は本当に素敵だな、と思いつつ、どうしてもいろいろ考えてしまいますね。

土地は自分のものであるか

宇佐見 田中さんのデビュー作「冷たい水の羊」には下関の街の選挙の話が出てきますよね。今作も舞台は下関で、一つの巨大な家系が街を牛耳る、その政治性が背景に書かれています。下関という土地の政治性についてはどのように考えていらっしゃいますか?
田中 下関って変な土地で、辺境ですよね。中心じゃないんです。政治的に保守なんだけど、都にいるのとは違うから、地方の豪族みたいな荒っぽい気質と穏やかな気質の両方があるんです。ただ、あそこは選挙があっても無風なんです。いつまで経っても何も変わらない。ずいぶん理不尽じゃねえかという気持ちが私にはあります。
宇佐見 なるほど、必ずしも出身地=中心だと考えなくていいわけですね。私は中心が絶対にどこかにあるってあまり思わないんです。
田中 わかります。私はただネタが切れてるから下関を書いているだけで、別に東京を書いたっていいと思っています。ただ、東京に対する恐れがあるから、あまり手出しができない。都会というこの物質、情報、経済をどう描けばいいのか、大きすぎてわからない感じがします。
宇佐見 私は神奈川県で育ったので、地方でも都市でも、どちらの出身でもない感じがあります。あえて言えば郊外、なのかな。沼津市出身で神奈川育ちで、東京の近くにはずっといたので、東京が怖いという感覚はないんですが、くだらないとは思う。渋谷と新宿がとにかく嫌いなんですよ。汚いですし。学生の頃に渋谷に行くことが多かったんですが、やっぱり憎らしい気持ちになる。だから土地を描いている作家さんを見ると、すごいなと感じる反面、自分にはできないと思ってしまいます。『くるまの娘』では群馬を舞台にしましたが、旅をしている設定なので、土地の歴史を描いたわけでもないですし。私には土地というのが自分のものではない感覚があります。
田中 私にも、下関が自分の土地であるという感覚は全くありません。ただ舞台にするためだけにあるんだ、という感じです。政治についても、実は別にどうでもいい。政治ってそんなに立派なものか、とも思うんですよ。大江さんやそれ以前の戦後派のような政治性は私にはありませんし。選挙なんて特番を組んでやるほどかって思ってしまうほどです。なんでそう考えるのかというと、政治家がほぼ男ばかりであることへの反発なのかもしれません。
宇佐見 確かにこの作品では権力者である男性と、そうではない女性の描き分けがされていますよね。作中に出てくる女性には慎一の伯母さんの福子と彼の母親のるり子、それから朱音と朱里がいます。福子は暴力の被害を受けていて、るり子も作中の重要な真実を知らされていないわけで、その意味では被害者かもしれない。それから、名前が記されない源伊知の妻もいます。彼女はあえて名前が奪われていると思うのですが、そんな妻が最後に、巨大化した源伊知の死体を前にして困っている人々へ向かって放つセリフが、私はすごくいいなと思ったんですよ。「故人なりに何かよほどの事情があるものと思いますが、女の頭で考え切れるものではございません。そうかといって、このままにしておくわけにも参りません。それだけは私にもよく分ります。どうぞ、ご遠慮なく、どのようにでも切り刻んでやって下さいませ。」痛烈な言葉でした。
田中 あそこは最後に付け足したんですよね。何かぶっ壊して終わらせたいなという気持ちがあって、だったら急に身体が大きくなったことにしてしまえって。あまりひどければ編集者が何か言うだろうと思いながら。
宇佐見 作中ではもう一つ、別の葬式の場面がありますよね。るり子が血の繫がっているほうの息子の葬式に行くんですが、あそこも凄まじい。石段を登っていくと、男ばかりがずらっといる。その、大きな波のような場面が……。
田中 ああいう地形は地元のものを借用しています。自分の知っている風景を使っているから、わざわざ作り込まなくてもいいですし。本当は井上ひさしさんみたいに長編を書くときに地図を作ったりしたいんですが、考えているだけで終わっちゃいそうで。そうならないように、考え始めたら書くようにしています。

近影
宇佐見りんさん

書かれなかった膨大な時間

田中 実は、元々はこの物語を書くはずじゃなかったんですよ。他に書こうとしていたものがあったんですが、いろいろと書いているうちに無理だな、と思い始めて。編集者からもそれはやめておいたほうがいいって助言があったから、そうしました。ずっと考えていたものは一度捨てて、新しくA4一枚にプロットを書いて、一から始めたんです。
宇佐見 それでもかなり情報が詰まっている部分がありますよね。とくに、土地にまつわる歴史的な話とか。
田中 多少、資料を読みましたが、それは外側を埋めるためですね。内側の部分では自分の知識や体験を使って書きましたけど、中身がどうもスカスカだなという感じは拭えませんでした。そのスカスカのところを言葉が通り過ぎていく、そんな具合に書いていました。
宇佐見 田中さんのお話を伺ってきて、ご自分の作品や文章をすごく厳しい視点で見つめられているんだなというのがわかりました。朱里が作家である慎一に厳しいことを言うのは、その表れなんですね。
田中 私には人間全般に対して偏見やコンプレックスがあるんですよ。人間ってなんでこんなに厄介なんだっていつも思っています。おそらくは女性に対する穿った見方もあると思う。だから、朱里の慎一に対する厳しい態度は、私が女性をどう書くべきかと意識しすぎた結果なんですね。
宇佐見 私は「蛹」を読んだとき、田中さんがかぶと虫の雌を描く、その描写にぐっと心を摑まれました。日本の近代文学、現代文学で見られる、男性が無自覚に女性を捉える眼差しには好きではないものもあり、その意味で朱里に共感を覚えた部分もあるのですが、「蛹」の女性の身体の捉え方は、虫になっていることで相対化されていて自覚的で、すごく好きでした。虫に置き換えるとこう描くことができるのか、たしかに素敵だと思ったんだろうな、と素直に受け入れている自分の感情に驚かされました。この雄のかぶと虫は雌のことが本当に綺麗に見えたんだなというのがはっきりと伝わってきたんです。
田中さんは動物を視点に書かれることが多いですよね。『地に這うものの記録』では鼠でしたし、今回は謎の怪物が出てきます。田中さんの文章からは動物の身体性を意識しているのがわかります。今作の怪物も最初は何者かわからないので、一体、何の話なんだろうと思って読んでいました。でも、いきなりお母さんの肉体を貪り食べていることが明かされる。あそこは衝撃的でした。
田中 ありがとうございます。でも、本当は人間で引っ張ったほうがいいと思うんです。いろいろ考えたんですよ。怪物には一切喋らせないとか、人間の視点だけで書くとか。それもかっこいいじゃないですか、叙事的で。だけど、現代の長編小説で叙事的な物語を書くってすごく難しいんです。「蛹」なんかは割と叙事的なんですが、あれは短編なので最後まで引っ張れたんですよね。ある程度の長さでリアルなものを入れて書くとなると、そうは行かない。だから今回書いてみて、人間の視点でもうちょっと頑張ればよかったかなという反省はあります。怪物に逃げてしまったかな、と。ただ、そこで語りをそっちへ逃がすことによって、なんとか話が繫がったような気もする。人間の視点だけだと保たないなと思ったんでしょうね。だからこいつに喋らせておけ、みたいな感じでしたね。
宇佐見 それは読者にとっての面白さを重視しているからということですか?
田中 うーん、というか、いつも長編を書くときには横穴というか、抜け道を用意しておくんですよ、私は。本道を進めていって、難しくなったら抜け道へ逃げる。それからまたどこかで合流したり、離れたり、道に迷ったりといったことの繰り返しで書いています。その先でどこに行き着くか、行き着かないかは自分でもわからないんですが。
先ほど長編小説の書き方がわからないと言いましたけど、自分の感覚では、長い物語の最後の部分を小説として書いているイメージがあるんです。この小説に出てくる登場人物たちの祖先は無限にいるわけで、作品に書けるのはその無限に連なる時間の尻尾の部分だけというか。小説には物語に書かれなかった時間だけじゃなくて、作者である私がこの世のなかで見聞きしてきた様々なことの蓄積も詰まっていると思ってもいます。だから読まなきゃ書けないな、といつも思う。これは作家の宿命みたいなものですね。
宇佐見 書かれなかった祖先たちが物語のなかに居る、というのはまさにその通りですね。例えば、朱音と朱里が源伊知から与えられた家には巨大な本の部屋がありますが、あの大量の本が示しているものからは膨大な広がりが感じられて、それが作品を厚くしているのではないかと私は思います。田中さんの作品には古今東西の様々な小説の引用が何かしらの形で入っているのが一つの特徴だと思うのですが、今のことと繫がるような気がします。
田中 さっきも言ったように、言葉というのは昔から連綿と繫がってきた普遍的なものなんですよ。先達がたくさんいて、その果てに、自分が端くれとして小説を書いている。なので、そのときに、今では見捨てられたような古いものも含めて、膨大な過去の作家が書いたものを意識するのは詮方ないことなんじゃないかと私は思っています。
あと、私小説を書いているつもりはないけど、自分という要素をどこかで書いておくことは意識してやっています。なんというか、自分ぐらいは自分の手で助けてやりたいという気持ちがあるんです。他人はあまり構ってくれないので、自分ぐらいは自分を救ってやらなきゃなと思っていて。突き放しながら、なんとか命を繫ぎ止めてやっているみたいな、そんなつもりで小説を書いています。
宇佐見 私は現時点では三作しか刊行していないので、おっしゃったことを完全に理解して消化できているかというと、まだそうではないと思います。でも、きっといつかは今日のことを思い出して活かせるときが来るのだろうなと、お話を聞いていて思いました。田中さんの、ご自身の小説に対する厳しい視線や、その先にある美学を感じることができて本当に幸せな時間でした。たくさんの学びを、ありがとうございました。

(2023・6・29 神保町にて)

「すばる」2023年9月号転載

文芸ステーション
2023年8月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

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