世界的ベストセラー『大聖堂』、日本語版で矛盾発覚…伝説の校閲者が明かした今だから言える大事件

対談・鼎談

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くらべて、けみして 校閲部の九重さん

『くらべて、けみして 校閲部の九重さん』

著者
こいし ゆうか [著]
出版社
新潮社
ジャンル
芸術・生活/コミックス・劇画
ISBN
9784103553915
発売日
2023/12/20
価格
1,265円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

校閲者を漫画にしたら

[文] 新潮社


著者のこいしゆうか(左)とレジェンド校閲者・矢彦孝彦(右)

 テレビドラマ「校閲ガール」でその存在が注目された校閲者。

 ひとつの言葉、ひとつの表現にこだわる日本語のプロとして本作りに欠かせない校閲者たちは、個性豊かな文芸作品とどう向き合っているのか?

 新潮社の校閲部をモデルに、普段ほめられることはなく、陽の当たることのない縁の下の力持ちを描いた漫画家のこいしゆうかさんが、伝説の校閲者といわれる元校閲部長の矢彦孝彦さんに、校閲の仕事や作家とのエピソード、今だから明かせる驚きの事件を聞いた。

※本稿はマンガ『くらべて、けみして 校閲部の九重さん』(新潮社)の刊行を記念して行われた対談です

矢彦孝彦×こいしゆうか・対談「校閲者を漫画にしたら」


「新頂社校閲部」で文芸校閲者として働く九重さん(右)

矢彦 すみません、これ(ペットボトルのお茶)ちょっと開けてもらえませんか? いや~握力が落ちまして、最近できないんだこれが。来年で77歳、喜寿になるもので。

こいし それでまだ校閲のお仕事されているのはすごいです!

矢彦 いや、もう終わり。このあいだ、塩野(七生)さんの『ギリシア人の物語』の最終巻をやって、おしまい。……って言ってたんだけど、すぐに校閲部の人から「今度出るこの作品、お願いできませんか?」って(笑)。さすがにお断りしましたけど。

こいし 前にこの漫画の取材でお会いした時、ご病気された後だったのでお酒は控えていると言いつつ割と飲んでいたのが印象的でした(笑)。

矢彦 それでも酒量はやっぱり減りましたよ。昔はひどかったですから。でも、我が校閲部は飲みに行くような人がいなかった。仕事終わるとささっと帰るんだよ。いつも飲んでるオレみたいなやつがいなくてね。でね、部長の時に雑誌とかのインタビューで「どうすれば良い校正者になれますか?」とよく聞かれるから、「毎晩酒を飲みに行くんだよ」って言ったらウケちゃって。良い校正の秘訣は酒場に行くことだって新潮社の校閲部長が言ってるって広まっちゃってね、ははは。

こいし キャッチーで良いです! 実際、私もそのお話をお聞きした時に面白いと思い、ストーリーの中に組み込みました。ただ飲みに行くだけじゃなくて、校閲者の信念みたいな深い理由があるのが素敵で、それを描きたかったんです。レジェンド校閲者として矢彦さんをまさに居酒屋のシーンで登場させたら、描きたいことが膨らみ前後編にまでなったのですが、ネーム(漫画を描く前のラフのことで、絵コンテのようなもの)がほぼ一発で編集者を通ったのはあの回が唯一でした。

矢彦 それはうれしいね。僕の話を聞きたいと編集者を通して最初に言われたとき、どうやって校閲者の世界を漫画にするんだろうと思って。全くイメージが湧かなかったから渋ってたんだけど(笑)。そもそも、どうしてこいしさんは新潮社校閲部をモデルにした漫画を描こうと思ったの?

こいし 編集の方から提案を受けたのがきっかけではあるんですけど、実は私自身、校閲とか校正のことをあまり理解していなかったんです。でも、私たち描く側の人間とは馴染みがない距離にいながら、本を作る上では必要な人たちということに興味がありました。出版社の知り合いからは、社内に校閲部を持つ会社は数少ないと聞きましたし、中でも新潮社さんは文芸出版社としての歴史が長く、校閲に力を入れていて他社とも全然違うと知って、その世界を物語として描いてみたいと思ったんです。

矢彦 うんうん。新潮社の歴史は創立者の佐藤義亮が印刷所で校正をしたことから始まっているからね。だからこそ校正に重きを置く伝統があるし、独自の技術とか経験、ゲラ(試し刷りのこと)を通しての作者とのエピソードには事欠かない。フィクションの形を取ってるけど、それが漫画で読めるというのは面白い。でも、これは使えるって話を聞いても、文芸だと作者との関係性もあるから描けない話も多いんじゃない?(笑)

こいし それはあります(笑)。そういう時は、似たような別の話に置き換えるとか、作者さんが特定されないような描き方をするとか工夫しています。ストーリー自体はフィクションですし。ただ、最初は校閲者の世界が本当にわからなさ過ぎて……。校閲者の方に取材を重ねるうちに、個性とか人間性はわかるようになって来るんですよ。でも、いざ漫画を描こうと思った時に、ゲラにどんな鉛筆を入れる(疑問を書き込むこと)のかとか、どういう時に葛藤するのかとか具体例が必要で、でもなかなかそこまで細かいことを覚えている方って少ないんです。それに普段、人とあまりコミュニケーションを取らなくても成立するお仕事ですよね。そういう方々からお話を聞き出すのって難しいんだなって思いました。

矢彦 これは漫画になんかできないって思わなかった?

こいし 思いました。未知数だし、無理だなって(笑)。

矢彦 そうすると、どの段階でやれそうだと腑に落ちたんです?

こいし いや~いまだにちゃんとわかってないような……(笑)。「小説新潮」での連載は続いていますが、毎回毎回、試行錯誤していますね。

矢彦 それはそうでしょう。誰かに説明するのも難しい世界。それに、動きがあるような仕事じゃない。それなのによくここまでのものをお描きになっているなと、拝読して感心しました。おかしいと感じるところも全くありませんし。

書き手への想像力


矢彦孝彦……元新潮社校閲部部長。有名作家から指名を受けるほどの名物校閲者だった。

こいし 矢彦さんはご自分のことを異端児だったとおっしゃいますが、そういう変わった校閲者の方って他にもいましたか?

矢彦 酒ばっかり飲んでるやつってこと?(笑) いないんだよな~。記憶にないよね。例えば、僕が入社した時にいた上の人たちはなんにもしゃべらなかった。黙って来て、黙ってやって、黙って帰る。怖い人はいなかったけど、面白くはないよね。僕が何かしゃべったら、「しーっ!」って怒られるんだもん。それはおかしいと思って、部長になった時にしゃべれしゃべれってみんなに言ってた。人間だからしゃべってこそ通じるんだと。自分が読んで鉛筆を入れたゲラをただ編集者に渡して終わるんじゃなくて、気になったところは「ここちょっとどうだろう?」って話をした方が面白いと思うんだよね。作家さんとはそれはできないけど、編集者とはできるんだから。

こいし 矢彦さん流の校閲の仕方についてもお聞きしたいんですけど、例えば先ほどの塩野七生さんの作品はかなり細かく見ていらっしゃるんですか?

矢彦 年表と登場人物の表はしっかり作りますが、それぐらいですよ。「聞こえる」が何回出てきて、「聞える」は何回だから統一した方が良いとか言う校正者も中にはいたけど、そんなのいいんだよ。当時、僕に話を持ってきた塩野さんの担当編集者もそれは全く望んでいなかった。

こいし そうなんですね。編集の方は以前から矢彦さんの腕を知っていたのでしょうか?

矢彦 一度印象深い仕事をしたことがあってね。僕が若い頃の話だけど、その人が担当する有名作家の作品のゲラで矛盾があることに気づいた。だけど、作家が編集者に「あとは任せる」って海外に行っちゃってたんだよ。「書下ろし新潮劇場」って戯曲のシリーズなんだけど、これはまずいと。そこで編集と僕でここを変えよう、あっちを直そうって膝突き合わせてやって、何とか辻褄合うようにできた。あとで作家さんからは助かったって感謝されたと編集者から聞いてね。

こいし さすが矢彦さん! それでその後、塩野さんの校閲を任されることにつながるのですね。

矢彦 そうだね。『ローマ人の物語』のように長編シリーズになると、途中で代わるのも簡単じゃない。引き継いだ校閲者がいきなり不要な疑問を出して、作者に不愉快な思いをさせたらまずいでしょう? 辞書に載っていないからといってその言葉に線を引っ張って「ヨロシイでしょうか」なんて安易に書く人もいるけど、作者はその言葉にこだわっているかもしれない。その作者にまたウチで作品を書いてもらうために、疑問の出し方一つにも注意が必要なんです。校閲者はゲラの上でしか言葉を伝えられないからこそ、顔も知らない作者に対して最大限想像力を働かせなければいけない。そんな僕の姿勢を、当時担当だった編集者は知ってたということだね。

こいし そっか、作者に思いを馳せることが良い校閲につながるんですね。ところでさっきのお話にあった、作品の中での矛盾に気づくというのは結構あることなんでしょうか?

矢彦 そうだなぁ、例えばさる人気作家みたいに矛盾してたっていいっていう方もいてね。ちゃんと校正したら、「そんなのやめてちょうだい!」って言われて全部そのままにしたって話を聞いたな。書いた本人が気にしないなら、直さなくても良いんじゃないかと思ったけど。だって、読者はその作家さんの作品を喜んで読んでいるんだから。ちゃんと校正をしたから本が売れるってわけでもないからね。

こいし 校閲者としてどこにこだわるかという話につながりそうですね。

新潮社 波
2024年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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