エバがアダムの脇腹から生まれたという記述をどう表現した? 旧約聖書を描いたキリスト教美術の面白さ

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キリスト教美術をたのしむ 旧約聖書篇

『キリスト教美術をたのしむ 旧約聖書篇』

著者
金沢 百枝 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
芸術・生活/芸術総記
ISBN
9784103554110
発売日
2024/01/31
価格
3,850円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「嘘! 可愛い!」の世界

[レビュアー] 穂村弘(歌人)


「エバの創造」 ベルベッロ・ダ・パヴィア画『ニッコロ・デステ家の聖書』 1434年頃 ヴァチカン教皇庁図書館蔵

 天地創造、アダムとエバ、ノアの箱舟やバベルの塔は、古来どのように描かれてきたのか?

 キリスト教美術の黎明期、中世ヨーロッパの壁画・彫刻・写本などを中心に、表現がパターン化する以前の、早春のようにあかるくのびやかな図像の数々を紹介した『キリスト教美術をたのしむ 旧約聖書篇』(新潮社)が刊行された。

 ユダヤ教、イスラーム教の作例も織り交ぜ、図版300点以上を掲載した本作の魅力を綴った歌人・穂村弘さんの書評を紹介する。

穂村弘・評「「嘘! 可愛い!」の世界」

『キリスト教美術をたのしむ 旧約聖書篇』の頁を開くと、見たこともないような絵や彫刻や写本が次々に現れてびっくりした。本書には、天地創造、アダムとエバ、カインとアベル、ノアの箱舟、バベルの塔、モーセの紅海渡渉などに関する図像が三百点以上も掲載されている。宗教についての知識がまったくない自分でも聞いたことがあるような有名なエピソードたちだ。

 ところが、その図像のどれもが思っていたイメージとは違うというか、なんというか、非常にぶっとんでいるのだ。中には子どもの落書きのようなものも少なくない。宗教とか美術とかについてのこちらの思い込みを覆す破壊力がある。

 そんな別世界を見るようなビジュアルの不思議さには、けれども、それなりの理由があるのかもしれない、と思った。まず、旧約聖書の記述自体にそもそも無理があるんじゃないか。例えば、アダムの体の一部からエバが創造されるシーン。

あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。(「創世記」第2章21~22節)

 有名な話だし、文章で読んだ時は、よくわからないけど魔法のようにそうなったんだろうとスルーしてしまったけれど、これを実際に絵にしなさいと云われたらどうだろう。けっこう困ると思うのだ。ビジュアルは誤魔化しがきかない。「魔法のように」の部分をちゃんと描く必要がある。でも、「あばら骨の一部」という素材と「女」という完成品の間にはギャップがありすぎるんじゃないか。

 このモチーフに関して、本文には次のように記されている。

 図像には、大きく分けて2タイプあります。第一は、昏睡状態のアダムの場面の次に、完成体のエバがアダムのもとに連れてこられる場面が続く、2場面から成るタイプ。(略)図を拡大して見てみると「骨」だけでなく、お肉もついていそうな「スペアリブ」なのがわかります。この肉片から、どうやってエバを造ったのか見当もつきませんが、あっという間に次の場面では、人間となったエバをアダムに紹介しています。(略)

 一方、ヨーロッパの西側で一般化したのは、アダムの脇腹から直接、エバが生まれでてくるタイプです。(略)

 脇腹から生じるエバをリアルに描くのは、どうしたって無理があります。その点に困ったのは、ミケランジェロが最初ではありません。中世の画家たちも、その辺りをうまく誤魔化そうと四苦八苦しています。

 なるほどなあ。非常にクリアでわかりやすい。確かに、「2場面」にしてしまえば「魔法のように」の問題は解決できる。その時間差の間に奇蹟が起こったことにすればいいのだから。一方、「アダムの脇腹から直接、エバが生まれでてくるタイプ」のほうはハードルが高そうだ。図像の中には、画家が頑張って「無理」をした挙げ句に、やばい感じになっているものがある。でも、我々にとっては、この「四苦八苦」こそが面白く、魅力的なのだ。

「ミケランジェロ」をはじめとするルネサンス期以降の巨匠たちは、この場面に限らず、あり得ないようなモチーフを「人体の立体感や空間表現上で齟齬をきたさないよう」に巧みに描いている。だから、「上手いなあ、素晴らしいなあ」という感想になる。

 でも、それ以前の、つまり本書の中心となる「中世の画家」たちは「四苦八苦」の結果なのか、それぞれのエピソードに対して想像を越えた世界像を造り出している。思わず驚いたり、くすっとなったりしながら、「嘘! 可愛い!」と云いたくなる。

 本書の図像の中には、「遠近法? それってなあに? おいしいの?」という声が聞こえてきそうなものがごろごろしている。表現技法のうえでも、現在の我々の感覚とは、そもそもの前提が異なっていて、けれども思いは限りなく純粋。これが前述の「子どもの落書きのような」という印象にも結びついているのだろう。

「上手いなあ、素晴らしいなあ」という気持ちは、我々を真面目な鑑賞者の位置に釘付けにする。でも、「嘘! 可愛い!」のほうは、見る者を無数の思い込みやルールから解放する力があるようだ。そのわくわく感が楽しくて、いつまでも眺めていたくなる。

新潮社 波
2024年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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