『鼓動』刊行記念対談<葉真中顕×速水健朗>「90年代の呪い――なぜ、僕たちは世代論を語ってしまうのか」ロスジェネ世代の二人が90年代と今を考察する

対談・鼎談

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鼓動

『鼓動』

著者
葉真中顕 [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334102579
発売日
2024/03/21
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「90年代の呪い――なぜ、僕たちは世代論を語ってしまうのか」


速水健朗×葉真中顕

社会派ミステリーの寵児、葉真中顕さんが「8050問題」に挑んだ二年ぶりの書き下ろし長編『鼓動』。その刊行を記念して、紀伊國屋書店新宿本店にて葉真中さんと、『1973年に生まれて団塊ジュニア世代の半世紀』の著者でライターの速水健朗さんのトークイベントが開催されました。当日の模様をレポートします。

取材・文 朝宮運河

場所 紀伊國屋書店新宿本店「アカデミック・ラウンジ」(2024年3月20日)

90年代の伏線回収


対談2

葉真中 今日なぜ速水さんとトークさせていただくことになったか、まずその理由をお話ししますと、『鼓動』という作品の二人の中心人物―犯人と刑事がいるんですが、これがどちらも僕と同じ1970年代生まれで、ロスジェネとか団塊ジュニアと呼ばれる世代なんです。この世代をテーマにイベントをするなら、トークのお相手は誰がいいだろうと考えていて、昨年『1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀』が大評判になった速水さんの存在が浮かびました。実は速水さんとは若干の繋がりもあって、お声がけしたという経緯なんです。

速水 ネット黎明期にお互いブログをやっていて、それがもとで知り合ったというこの世代っぽい関係です(笑)。

葉真中 今回のテーマが「90年代の呪い― なぜ、僕たちは世代論を語ってしまうのか」というものなんですが、私たち団塊ジュニア世代は、10代から20代の多感な時期を過ごした1990年代にずっと縛り付けられているようなところがある。それはなぜなんだろう、というお話を、お互いの新刊に絡めてできたらなと思います。

速水 よろしくお願いします。

葉真中 1990年代から2020年代まで約30年経過したわけですが、このところあの時代のカルチャーがリバイバルしていますよね。最近も『踊る大捜査線』再始動というニュースがありました。ここで作家的な表現をさせてもらうと、1990年代に張られた伏線が、2020年代になって回収されている、という見立てを私はしているんです。そう考えるようになったきっかけは、今年の1月に発生した能登(のと)半島地震でした。被災された方が大勢いらっしゃるので、こういう話が適切かどうか分からないんですが、あのお正月のそわそわして落ち着かない感じって、以前にも体験したことがあったよなと考えて、1995年1月の阪神(はんしん)・淡路(あわじ)大震災だと思いいたりました。あの年はすぐに地下鉄サリン事件がありましたが、30年後の今は旧統一教会が世間の注目を集めている。さらに裏金問題で自民党が揺れていますが、あれのもとになっている政治資金規正法が改正されたのも1990年代なんですよ。

速水 1993年に自民党の下野ということがあって、それを受けて選挙制度改革と政治資金制度改革が行われたんです。その当時生まれたシステムが、30年経ってこうして問題になっている。

葉真中 芸能界でいうと、1994年に『遺書』という大ベストセラーを出した松本人志が、30年後にスキャンダルで芸能界を半ば引退した状態になり、1999年に週刊文春が報じたジャニーズ問題が、あらためて注目されたりね。すべて偶然かもしれないけど、90年代に張られた伏線が回収されている、90年代の呪いが今になって効果を発揮している、という見方はできるんじゃないかと思います。

速水 僕らの親の世代である団塊の世代の伏線が、90年代になって回収されたという見方もできる。60年代末から盛り上がった学生運動の終着点は1972年のあさま山荘事件ですが、1995年に地下鉄サリン事件が起こった時、カルト化する若者を理解するために人々が参照したのはあさま山荘事件だった。こういうある種の反復は、『鼓動』でも触れられていますよね。

ロスジェネの自分史とメディア史


対談3

葉真中 私は一般に社会派ミステリーを書く人間だと思われていて、自分でもある程度はその意識でやっているんだけど、小説のネタとして社会問題を掘り起こすというスタンスだと、いまいちうまく書けないんですよ。どこか「自分事」として引きつけないと、筆が乗ってくれない。『鼓動』でも自分の過去をさらけ出すみたいな書き方をしています。犯人のロスジェネ世代の男性、草鹿(くさか)は自分の実体験をベースに書いていて、だからオタク寄りの文化系男子という設定なんですよ。それこそ「小説家になれなかった俺」ぐらいの勢いで書いているんです。速水さんが『1973年に生まれて』を書かれた時はどうでしたか。

速水 僕は葉真中さんと逆で、自分のことを書きたくなかったんです。『鼓動』と『1973年に生まれて』って扱われている項目はかなり重なっているじゃないですか。ある意味、双子みたいな本といっていい。

葉真中 そうですよね。『鼓動』の参考文献には速水さんの『1973年に生まれて』と『1995年』を入れさせていただいています。

速水 双子でも向いている方は違っていて、僕はあの本で自分史ではなく、メディア史を書いたつもりなんです。例えば2001年にニューヨーク同時多発テロが起こった時、僕は出版社で働いていて、ちょうど会社で会議をしていたんですが、突然メンバーの携帯が次々に鳴り出して、それで事件発生を知ったんです。2001年って携帯電話はもう普及していますが、会議の時はまだ誰もパソコン開いてなかった。書きたかったのはそういうメディアにまつわるディテールです。個人的な話は冒頭でちょっと書いているんだけど、それはどんどん希薄化していって(笑)、むしろ自分が忘れていたことを、メディアと絡めて書くという作業が中心になりました。

葉真中 僕の基本的なスタンスっていうのは、いわゆるロスジェネ史観寄りなんです。子供の頃にトレンディードラマを見て、「いつか自分もこんな大人になるんだ」と漠然と信じていたのに、そんな未来は待っていなかった。こんなはずじゃなかった、という思いが抜きがたくある。ところが『1973年に生まれて』の帯には、「アンチロスジェネ史観」と書かれているじゃないですか(笑)。それでかなり身構えて読んだんですが、決して「ロスジェネ問題に物申す」みたいな本ではないですね。むしろロスジェネという大文字の歴史観によって、見過ごしてしまいがちな小さな変化、それこそ携帯やパソコンが生活に入ってきた瞬間みたいなものを、丹念にたどった本でした。

速水 うちの母親はよく、子どもの頃にテレビが初めて家に来たとか、冷蔵庫が来たとかいう話をしてくれるんです。それは想像するだけでも大きな変化なんだけども、僕らはそこまで劇的な変化は体験していないにせよ、テレビにリモコンがついたり、いつの間にか地上波デジタルに移行したりという瞬間には立ち会っている。そういうことを細かく記していくことは意外に大事なことなんじゃないか。

世代語りとアンチテーゼ


対談4

葉真中 さて今日のテーマ、「なぜ、僕たちは世代論を語ってしまうのか」ですが、私もつい油断するとね、「俺の世代はさあ」と世代論を語ってしまいがちになる。そのくせ他の人の世代論を聞くとイラッとしてしまうんです(笑)。速水さんが『1973年に生まれて』で“アンチロスジェネ”を標榜したのは、こういう雑な世代語りに対するアンチテーゼみたいな気持ちもあったんじゃないですか。

速水 そもそもロスジェネって言葉が生まれたのは2007年、朝日新聞の「ロストジェネレーション」という連載がきっかけです。それまでは氷河期世代などと呼ばれていたんだけど、ロスジェネっていう言葉が生まれたことで社会の空気が変わった気がするんですよ。非正規雇用の人たちが不安定な生活をしているのは、個人のせいじゃなく、社会構造が原因なんだとみんなが思うようになった。あの連載から17年経って、そろそろ意識を更新しないといけないんじゃないかと思います。

葉真中 なるほど。

速水 僕個人の話をすると、1990年代僕はパソコン雑誌の編集部にいたんです。僕の給料はすごく安かったんですけど、ごく近いところにホリエモンがいて、藤田晋(ふじたすすむ)がいて、山本一郎(やまもといちろう)がいて、新しいビジネスを始めていた。もちろん彼らのように成功せずに消えていった人も大勢いるんですけど、あの時代のインターネットバブルを、なかったことにしていいのかという思いが正直ある。マスコミの人たちが語るロスジェネ問題は、半ばフィクションだと思っています。だって当時のテレビ・新聞・出版業界って、信じられないくらい金まわりがよかったですよ。そこを見ないことにして、いわば格差社会の上層にいる人たちが、失われた10年を語るのはどうなのって。そういう意味での反ロスジェネ意識は、すごくありますね。

葉真中 そこは超共感します。ロスジェネ論争の契機となった朝日新聞の連載も、意地悪な見方をすると、無事大手新聞社に就職できた勝ち組の若い記者が、「もしかしたら自分もこうなっていたかも」という気持ちで、うまくいってない人たちに取材したルポルタージュなんですよ。もちろん真剣に取材していたとは思うんだけど、取材者の目線が当事者から乖離(かいり)しているんですね。

速水 新しい言葉ができることで問題が可視化されることも多いし、取材による啓発っていうのは大事なことなんですけど、それによって見えなくなるものもある。僕は大学にちゃんと行っていなかったので、就職はできなかったんですけど、エンジニアリングの知識でなんとか食っていけた。ホームページの制作を1件10万円とかで請け負って、それを何本かやれば生活できたんです。そこからアスキーというパソコン雑誌の会社に、アルバイトとしてもぐりこんだんですけど、つまり就職ルートとは違うところにもスペースがあって、そこに集ってくる人も多くいた。こういう話はロスジェネ論争ではあまり触れられない。

葉真中 90年代から2000年代までは、オルタナティブをまだ信じられるところはあったと思います。僕も大学をドロップアウトしてるんだけど、当時はあんまり悲愴感がなくて、同じような境遇の人も結構いるし、「なんとかなるでしょ」という気持ちだった。実際ある会社にバイトで入って、契約社員から正社員というルートをたどっているので、就活に失敗したから人生詰んだ、というのが氷河期世代全員に共通するリアルではない。けれどもそういうオルタナティブのルートは、その後どんどん縮小していきましたよね。

速水 それはそうですね。

葉真中 さっき朝日新聞の記者を悪く言いましたけど、今ふと反省したんです。僕はさんざん自分がロスジェネ世代だと言い続けていますが、作家になれましたからね。モデルマイノリティですよ。氷河期で苦労してきた人たちに、「だったら作家になりなよ」なんて絶対言えない。

速水 言えない。ライターもそうです。

葉真中 努力や才能以上に運の要素も大きいですしね。恵まれた立場に胡坐(あぐら)をかいていないかどうか、ロスジェネ世代を語る時には、常に気にしないといけない。

速水 それまで僕らの世代を誰も名づけてくれなかったから、ロスジェネという言葉ができたことで、包摂されたところはあるんですよ。でもそれは麻薬でもあって、「俺たちはロスジェネだから、社会構造の被害者だから」って同じ調子で20年も言い続けたら、さすがにうざがられるんじゃないか、ということをこの5年くらい感じていて。僕らの存在だけでなく、僕らの摂取してきたカルチャーまでそういう目で見られかねない。

葉真中 うーん、我々が『踊る大捜査線』の話で熱くなるのは、親の世代が四畳半フォークで盛り上がるのと同じようなものなのか。

速水 『踊る大捜査線』を90年代の呪いと呼ぶのはちょっと微妙な気がするけど。もっとこの世代が特権化しているカルチャーがありますよ。たとえばフリッパーズ・ギターとか。

葉真中 ああ、当時渋谷系と呼ばれていたものはそうかもしれません。フリッパーズの話は、ファーストアルバムの歌詞が英語の曲をカラオケで歌っていた記憶がよみがえってくるのでやめましょう(笑)。

速水 いや、封印することで呪いを強めちゃ駄目なんです。特権化しないでちゃんと語る。小沢健二(おざわけんじ)のフリーライブを見たというようなこの世代が特権化しがちなエピソードも、語って共有するべきなんです。

物語の普遍性


対談5

葉真中 今日のキーワードが出ましたね。共有。世代論って分断の機能とともに、共有や連帯の機能もあると思うんです。それは『鼓動』で意識したことでもあるんですが、ロスジェネ以外の世代が読んでも、これは分かる、形は違うけど自分の世代も体験したことだと感じてほしい。同世代のうなずきあいでタコツボ化するのではなく、たとえばゆとり世代やZ世代にも繋がるような、普遍的な世代論が書けていたらいいなと。

速水 それは読んでいてすごく感じましたよ。

葉真中 普遍性ということでいうと、日本の世代論って団塊の世代をはじめ、しらけ世代、ゆとり世代、ロスジェネ世代と社会状況に合わせて名づけられることが多くて、スパンも短いんです。対してアメリカの世代論は年代で機械的に区切っていく。Xの次がYで、その次がZと。同じ世代論でも両者はだいぶ違うはずなんだけど、ここにきてZ世代という同じ言葉が流通していて、ほぼ同じような傾向があるらしい。日本と海外の世代論が一致したのは、興味深い現象だなと思っているんです。

速水 社会構造がどこも似てきているんですよ。高齢者に富が集中して、自分たちにはもう出がらししか残されていない、という怒りが若い世代の間で広まっている。成田悠輔(なりたゆうすけ)の「高齢者は集団自決しろ」という発言が炎上しましたが、問題なのは成田悠輔個人よりも、あの発言を支持している人の姿がうっすら見えたことだと思います。そこに目を向けないと意味がない。

葉真中 いわゆる世代間格差の問題が世界中で起こっていて、日本のZ世代もそこに怒りを覚えているということですね。

速水 ただ注意しないといけないのは、高齢者に富が集中していっても、高齢者全員が豊かなわけじゃないんですよ。一部の富裕層と一般層では全然違う。そこをきちんと説明したうえで、富の再分配の問題に向き合わなければ、ますます世代間の分断が進むだけです。

葉真中 分断するんじゃなくて、共有や連帯の道を探っていく。若干綺麗ごとかもしれないですが、これは間違いなくそうだと思います。そろそろ残り時間も少ないですが、速水さんは『鼓動』をどう読まれましたか。

速水 あえて本筋と関係ないところに反応しますが、中林(なかばやし)という警察官の登場するシーンが面白かった。主人公の刑事が情報交換のために、中林という男と待ち合わせるんですが、そこの舞台設定がいいんですよ。時代のトレンドや風俗が盛り込まれた『鼓動』の中でも、特に印象的なシーンです。

葉真中 この部分はネタバレにはならないので言いますが、中林が指定してきたのは、カラオケボックスなんです。せっかくだからと中林が“ある曲”を歌うんです。こうしたディテールに注目するのは、速水さんらしいですね。

速水 この小説はそういう部分が面白い。警察署内に置かれているSDGs自販機とか。

葉真中 あれは実際、都内の警察署に設置されているんです。その自販機で購入すると3円が環境保護団体に寄付されるんだけど、売っているのは環境に優しくないペットボトルの飲料という(笑)。あれはぜひ書きたかったんです。

速水 まさに読みどころはそこで、ディテールに社会状況が落とし込まれているんですよね。そのネタがいちいち面白い。あとはやっぱりラストです。さっき特権化という話題が出ましたが、この小説は「特定の誰かの個人的な話」ではなく、オープンなところがあって、読んでいて自分のことだと感じる瞬間がある。フィクションを読んでいるはずが、ノンフィクションを読んでいるような感覚も味わいましたよ。

葉真中 フィクションの主人公って当然特権性を帯びているんですが、草鹿という犯人については、都合のいい能力、都合のいい展開を極力排したつもりです。引きこもりのキャラクターって隠れた才能とセットに描かれがちで、たとえば天才ハッカーだったりすることが多いですが、引きこもりがパソコンに詳しいというのがひとつの偏見ですからね(笑)。そうした都合のいい展開を用いることなく、普遍的なものをすくいあげたつもりなので、ぜひ読んでそれを感じていただけると嬉しいです。今日はどうもありがとうございました。

速水 こちらこそ、とても楽しかったです。

撮影/白倉利恵

光文社 小説宝石
2024年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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