がん細胞が「ぷちぷち壊れていく」“ノーベル賞級”の治療法が発見された日 『がんの消滅――天才医師が挑む光免疫療法』試し読み

試し読み

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 その画期的な機構から異例のスピードで承認され、「第5のがん治療法」とも言われる「光免疫療法」。

 テレビや新聞、雑誌にもたびたび取り上げられた開発者・小林久隆医師は世界最高峰の医学研究機関、米国国立衛生研究所(NIH)の主任研究員です。

 小林医師はふとした偶然から光免疫療法を「発見」するのですが、本書では小林医師に足かけ6年密着。同治療法の仕組みをわかりやすく解説すると共に、なぜ小林医師がその「偶然」にたどり着けたのか、また、実用に到る知られざる苦闘を描きます。

 今回の試し読みでは本書第一章の冒頭を公開いたします。

第一章 光免疫療法の誕生

実験現場の奇妙な現象
 2009年5月、米国メリーランド州ベセスダ。
 ワシントンD.C.のすぐ北西に隣接するその町に、アメリカ最大の医学研究機関、米国国立衛生研究所(NIH:Nationa lInstitutes of Health)はある。そのNIHの主任研究員、小林久隆の実験室で奇妙な現象が起きていた。
 ──がん細胞がぷちぷち壊れていく。
 当時、小林が取り組んでいたのは「がんの分子イメージング」である。医学における〈イメージング〉とは人体内部の構造などを解析、診断するために画像化すること。「がんの分子イメージング」とは、つまりがんを可視化する研究だ。がんを「治療する」ための研究ではない。ましてやがん細胞を破壊するなどということが目的ではない。
 がん細胞の表面には他の正常細胞にはないタンパク質が多数、分布している。がん細胞を移植されたマウスの体組織内に、このタンパク質とだけ(特異的に)結合する物質を送り込んでやれば、がん細胞にだけその物質がくっつくことになる。この物質に蛍光物質をつけてやればどうなるか。がん細胞だけを光らせることができる。外科手術の際は、その光っている部分、がん細胞だけを取り除くことが可能になるし、取り残しも防げる。簡単に言えば、当時の小林が取り組んでいた研究のひとつはそうしたものだった。
 その日、朝から試していたのは〈IR700〉という光感受性物質だった。光に当たると化学反応を起こして発光する物質である。IRはInfrared=赤外線の略だ。700nm(ナノメートル)付近の波長の光に反応するからIR700と名づけられた。700nmの光とは、テレビの赤外線リモコンでも使われるような無害安全な種類の光である。紫外線のような波長の短い光だと細胞を傷つけてしまう恐れがある。そのために選ばれた可視光に近い近赤外線である。
 その光を何度がん細胞に当ててもうまく光らない。
 マウスのがん細胞と試薬はちゃんと結合しているはずだった。だが、きれいに光らない。がん細胞が仄かに発光はするのだが、際立った反応を見せることもなく、そのまま暗くなってしまう。明らかにほかの試薬とは違う反応だった。実験は失敗に見えた。
「またダメだ……」
 実験に当たっていた小川美香子(現北海道大学大学院薬学研究院教授)は、蛍光顕微鏡のモニターを見つめていたその時のことをよく覚えていた。小川は京都大学薬学部出身。浜松医大の助教職から2年間という期限で小林のもとに留学していた。小川の研究テーマもまた「がんの分子イメージング」だ。自他ともに認める〈化学屋〉で、実験の精度や手順には定評がある。実際、NIHでも優秀な博士研究員(フェロー)に与えられる賞を受賞していた。
「どうしてなんだろう」
 がん細胞と結合させる試薬によって、がんの光り方や明るさも変わる。リストアップした試薬を片っ端から実験し、その差異をデータとしてまとめるのが小川の仕事だった。
 東京慈恵会医科大学の大学院からNIHに来たばかりの光永眞人(現慈恵医大医学部講師)も戸惑いながらモニターを見つめていた。
 帰国を控えた小川から実験を引き継いでいる光永の役割は記録用に撮影データを残すことだった。当時を振り返って光永は言う。
「パッと光を当てれば、ほかの色素はだいたいこちらの予想通りに光ってくれました。近赤外線の強さや露光時間を計算してやると、がん細胞がどのくらい光って、何秒後には消えていくというパターンがある程度は分かっていたんです。ですが、IR700の場合はがん細胞の光り方も違っていて、近赤外線を当てた後、顕微鏡の視野が急激に暗くなっていきました」
 この2年で小川はすでに200近くの蛍光物質を試している。近赤外線を当てたとたん、その光エネルギーに反応してモニター内でがん細胞が鮮やかな緑色に光ればそれは「よい試薬」だ。しかし、リストの最後の方にあったこのIR700は、何度実験を繰り返してもきれいに光らせることができなかった。ぼんやりと光るには光っても、その淡い光はすぐ消え、顕微鏡の視野が暗くなる。その繰り返しだった。

芹澤健介(せりざわ・けんすけ)
1973(昭和48)年、沖縄県生まれ。横浜国立大学経済学部卒。ライター、編集者、構成作家、映像ディレクター。著書に『コンビニ外国人』など、共著に『本の時間を届けます』など。

小林久隆(こばやし・ひさたか)
1961(昭和36)年生まれ。京都大学大学院医学研究科修了。医学博士。光免疫療法の開発者。米国国立衛生研究所(NIH)主任研究員。

新潮社
2023年10月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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