腐敗と暴力にまみれた田舎町の狂気を描いたノワール小説 『悪魔はいつもそこに』試し読み

試し読み

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 腐敗と暴力にまみれた田舎町。
 邪(よこしま)な人間たちの欲望が暴力の連鎖を招く――。
 ノワールの最終到達点、ここに誕生。

 戦後まもないオハイオ州南部の田舎町。病弱な母親の死後、父親も喉をかき切り後追い自殺し、祖母に引き取られたアーヴィンは、義妹レノラとともに育つ。狂信的だった亡父にまつわるトラウマを抱えながら家族を守ろうと懸命にもがく彼の運命は、欲望にまみれた牧師、殺人鬼夫婦、悪徳保安官らの思惑と絡み合い、暴力の連鎖へと引きずり込まれていく――。

 本書は、フラナリー・オコナーの文学性、ジム・トンプスンの暗黒性を凌駕するほどに徹底した狂信と暴力をまとった、現代クライム・ノワール小説の怪作です。

 今回は試し読みとして、主人公アーヴィンが父母をいちどきに喪ってしまうことになる第7章を紹介します。物語はこの後、祖母のもとで成長していく彼が、根源的な悪に幾度も遭遇し、知らずして暴力の連鎖へと絡めとられていくさまが描かれることになります。

 ***

   7

 弁護士を生贄に差し出したものの、二週間ほどすると、シャーロットの骨があちこちで折れはじめた。ぽきんと吐き気を誘発する小さな音がすると、彼女が絶叫し、腕をかきむしった。ウィラードに体を動かされるたびに、激痛を感じて気絶した。尻の床ずれが化膿(かのう)し、皿ぐらいの大きさになっていた。シャーロットの部屋には、祈りの木の前と同じくらいひどい悪臭が充満していた。一カ月も雨が降らず、熱波が和らぐこともなかった。ウィラードは家畜飼育場でまた何度か子羊を買い、バケツに溜(た)めた血を祈りの木の周りにかけ、そこのぬかるみを踏むと靴がすっぽり沈んだ。ある朝、ウィラードが家を空けていたあいだ、腹を空(す)かせた柔らかい白い毛の野良犬(のらいぬ)が、足を引きずり、尾をうしろ脚のあいだに垂らし、おずおずとポーチに近づいてきた。ウィラードが帰宅するまでに、アーヴィンは冷蔵庫の残り物を少し与え、ジャックという名前をつけ、お座りまで教えていた。ウィラードは無言で家に入り、ライフルを持って出てきた。アーヴィンを犬から無理やり離し、息子がやめてと哀願するのもかまわず、犬の眉間(みけん)を撃ち抜いた。そして、死骸(しがい)を森に引きずっていき、十字架のひとつに釘(くぎ)で打ち付けた。それ以来、アーヴィンはウィラードと口をきかなくなった。ウィラードが車で生贄を探すあいだ、アーヴィンは母親のうめき声をじっと聞いていた。もうすぐ学校がはじまるが、夏のあいだ一度も丘を下りることはなかった。母親に死んでほしいと思った。

 数日後の夜、ウィラードがアーヴィンのベッドルームに慌(あわ)てて来て、アーヴィンを揺すって起こした。「今すぐ祈りの木に行け」ウィラードはいった。息子は体を起こし、戸惑った様子であたりを見回した。廊下のライトがついている。廊下を隔てた向かいにある母の部屋から、荒い息づかいや、あえぎ声が廊下に響いていた。ウィラードはまたアーヴィンを揺すった。「おれが呼びに行くまで絶対に祈りをやめるな。主に声を届けろ、わかったな?」アーヴィンは急いで着替え、野原の道を走りはじめた。死んでほしいと思ったことを思い出した。自分の母親なのに。アーヴィンはさらに速く走った。

 午前三時になると、喉が火膨れしたかのようにひりひりしていた。父親が一度来て、アーヴィンの頭からバケツの水をかけ、祈り続けるよう懇願した。だが、主の慈悲を求めて声を上げ続けながらも、アーヴィンは何も感じられず、恩寵(おんちょう)もなかった。丘のふもとのノッケムスティッフの住民の中には、この暑さにもかかわらず窓を閉め切ったり、朝まで明かりをつけ続け、自分で祈りを捧げる者もいた。スヌーク・ハスキンズの妹のアグネスは椅子に座り、いつもの痛ましい声を聞きながら、これまで弔ってきた幻の夫たちのことを思い出していた。アーヴィンは死んだ犬を見上げた。犬のうつろな目が暗い森の少し離れたところから見つめ返している。その腹は膨れて今にも破裂しそうだった。「ぼくの声が聞こえるか、ジャック?」アーヴィンはいった。

 夜が明ける少し前、ウィラードは死んだ妻をきれいな白いシーツでくるみ、あまりの喪失と絶望で感覚が麻痺(まひ)したまま野原を横切った。無言でアーヴィンのうしろに近寄り、一、二分のあいだ、かすれて声にならない声を上げている息子の祈りに耳を傾けた。うつむくと、ひらいた折り畳み式のポケットナイフを握りしめていることに気付き、ウィラードは自分を嫌悪(けんお)した。彼はかぶりを振り、ナイフを畳んでしまった。「さあ、アーヴィン」彼はいった。息子にやさしい声をかけるのは数週間ぶりだった。「終わったよ。母さんは亡くなった」

 二日後、シャーロットはボーンビルの外れにある日ざらしの平らな墓場に埋葬された。葬式から家に帰っているとき、ウィラードがいった。「旅行にでも行こうかと思っている。コールクリークにいるおまえのおばあさんに会いに行くか。しばらくそこにいてもいい。アースケルおじさんにも会える。それから、一緒に暮らしているとかいう女の子は、おまえより少し年下だと思ったが。あそこなら、おまえも気に入る」アーヴィンは何もいわなかった。犬のことからまだ立ち直っていないし、母親のことから立ち直ることはまずない。懸命に祈れば必ず助かると、ウィラードはずっといっていたのに。家に着くと、ポーチのドアの前に新聞に包まれたブルーベリーパイが置いてあった。ウィラードが家の裏手の野原にふらり歩いていった。アーヴィンは中に入り、一張羅を脱ぎ、ベッドに横になった。

 数時間後に起きたが、ウィラードはまだ戻っていなかった。アーヴィンには好都合だった。彼はパイを半分食べ、残りを冷蔵庫に入れた。ポーチに出て、母親の揺り椅子に座り、日の名残りが家の西側にある常緑の並木のうしろに沈むさまを眺めていた。母がはじめて地中ですごす夜を想像した。どんなにか暗いだろう。木の下でシャベルに寄りかかっていたどこかのおじいさんが、死は長い旅か長い眠りだとウィラードに話しているのを立ち聞きした。父親はにらみつけ、顔を背けたが、アーヴィンはそれなら悪くなさそうだと思った。母親を思えば、ふたつを少しずつ合わせたものであってほしいと願った。葬式にはほんのひと握りの人しか参列しなかった。母親がウッデンスプーンで一緒に働いていた女の人と、ノッケムスティッフの教会から来た年配のご婦人ふたり。西の方に姉だか妹だかがいるはずだが、ウィラードは連絡先がわからなかった。アーヴィンはそれまで葬式に出たことはなかったが、こんなのは葬式と呼べないかもしれないという気もした。

 雑草だらけの庭に夕闇(ゆうやみ)が広がるにつれ、アーヴィンは揺り椅子から立ち上がり、家の側面に回って何度か父親を呼んだ。数分待ち、また家に入って寝ようかと思った。だが、家に戻って、キッチンの引き出しから懐中電灯を持ってきた。小屋の中をのぞいたあと、祈りの木に向かって歩きはじめた。アーヴィンもウィラードも、母親が亡くなってから三日間、そこへは行っていなかった。夜が駆け足で訪れようとしていた。蝙蝠(こうもり)が野原の昆虫を追って急降下し、ナイチンゲールがスイカズラの木陰の巣箱からアーヴィンを見ていた。アーヴィンはためらい、やがて森に足を踏み入れ、小道を歩いていった。更地の縁で立ち止まり、懐中電灯であたりを照らした。祈りの木の前でひざまずいているウィラードが見えた。腐敗臭が鼻を突き、食べたものを戻しそうになった。パイが喉元(のどもと)まであふれてきた。「ぼくはもうやらないよ」アーヴィンは大きな声で父親にいった。きっと叱(しか)られるだろうと思ったが、もうどうでもよかった。「ぼくは祈らない」

 アーヴィンは反応をしばらく待ってからいった。「聞こえないの?」彼は祈りの木に近づき、ひざまずいたウィラードの体に光を当て続けた。そして、父親の肩に手を置くと、ペンナイフが地面に落ちた。ウィラードの首が片側に折れ、喉を左右にざっくり切った血だらけの傷口があらわになった。血が祈りの木の側面を伝い、スーツのズボンに滴っていた。かすかな風が丘をなで、アーヴィンの首のうしろの汗を冷ました。頭上の枝がきしった。ひと房の白い毛が宙に浮かんだ。ワイヤーで吊り下がっていた数本の骨と釘が軽くぶつかり、うつろで悲しげな音楽のように響いた。

 木々の隙間(すきま)から、ノッケムスティッフの明かりがいくつかぼんやり見えた。ふもとの方で、車のドアが閉まる音と、馬蹄が金属のペグに当たる甲高い音が聞こえた。その場に立ったまま、次の蹄鉄投げの音を待ったが、聞こえてこなかった。ふたりの狩人(かりうど)がウィラードとアーヴィンのうしろからやってきたあの朝から、千年もすぎたかのような気がする。涙が流れてこないので、やましさと恥ずかしさを感じるが、涙など残っていなかった。母親がゆっくり死んでいく過程で、涸(か)れてしまった。ほかにどうしていいのかわからず、ウィラードの遺体から離れ、自分の歩く方向を照らした。そして、森を抜けて歩きはじめた。

続きは書籍でお楽しみください

ドナルド・レイ・ポロック(Donald Ray Pollock)
1954年生れ。オハイオ州ノッケムスティッフで育った経験をもとに、2008年に短篇小説集Knockemstiffを出版して作家デビュー。同作で’09年PEN/ロバート・W・ビンガム賞を受賞。’11年に出版された初長篇小説である『悪魔はいつもそこに』が批評家から絶賛され、Netflixオリジナルで映画化された。寡作の作家で、その後に刊行されたのは長篇The Heavenly Table(’16年)のみ。

新潮社
2023年6月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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