幕府役人の生態を伝える希有の記録

レビュー

8
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武士の人事

『武士の人事』

著者
山本 博文 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
歴史・地理/日本歴史
ISBN
9784040822754
発売日
2018/11/10
価格
907円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

幕府役人の生態を伝える希有の記録――【書評】『武士の人事』山本博文

[レビュアー] 山本博文(東京大学史料編纂所教授)

 寛政の改革を行った老中松平定信は、御三卿の田安家に生まれた八代将軍徳川吉宗の孫である。同じ御三卿の一橋治済と老中田沼意次によって白河藩に養子に出され、将軍にはなれなかったが、老中首座兼将軍後見として、辣腕を振るった。定信は、家臣の水野為長に命じて幕政や幕府役人の噂を調査させ、人事考課などに使った。その記録が、『よしの冊子』である。文章の多くが、「……の由」と書かれていることから、そのように名付けられた。

 私がこの記録を読んで興味を持ったのは、池波正太郎氏の小説『鬼平犯科帳』の主人公である長谷川平蔵についての記述が散見されたからである。長谷川は、火付盗賊改に任じられた時は、「奸物」とされ、「どうしてあのような者を登用したのか」と非難され、同役の松平左金吾と比較されて、左金吾にかなうわけがないと散々な評判だった。

 ところが、長谷川が上州の真刀徳次郎など多くの大盗賊を召し捕らえ、しかも犯罪者や貧民にも慈悲の心をもって振る舞うことから次第に評判があがり、庶民は「平蔵様、平蔵様」と崇め、「是非町奉行になってもらいたい」とまで言うようになった。こうした記述が、テレビ時代劇の『鬼平犯科帳』にダブるところもあり、楽しんで読んだ。

 平蔵については、『鬼平と出世』で詳しく書いたが、この史料には、定信の同僚の老中をはじめ、若年寄、町奉行、勘定奉行など、幕府役人の評判や素行が詳しく書かれている。

 たとえば町奉行の初鹿野信興について。老中格本多忠籌は、大判値段を引き下げる触れを出す前日、多くの大判を払い下げた。大損した商人の苦情を受けた初鹿野は、本多を難詰した。

「あなた様、よもや大判値段引き下げの事を知らなかったとは申されますまい。それを知らないふりで昨日払い下げなさったのは、御役柄に対しあまりに如何なものかと存じます」

 町人を子供のように思って保護する町奉行の面目躍如である。本多の行いは、今で言えばインサイダー取引以上に悪質である。その後、死去した初鹿野は、本多に睨まれ、切腹したという噂が立った。そのままテレビ時代劇になるような史実が書かれている。

 また、幕府役人の実態が書かれていることも興味深い。勘定奉行の柳生久通は、城にいることが好きでなかなか帰宅しないから、部下も帰宅できず困っている。これなどは、現代でも見られることかもしれない。有能な勘定奉行久世広民は、あまりの忙しさに、早く番頭になって楽をしたいとぼやいている。こういう気持ちもよくわかる。

 このほか、当時の大名の評判もおもしろい。仙台藩は藩主の伊達重村が中将に早く昇進したくて田沼に賄賂を使い、財政が苦しかった。家臣たちは、慈悲深く才略のある弟の伊達摂津に、「あなたが藩主にならしゃったらいいのに」と言っていたが、彼は堀田家に養子に行き、若年寄になり勝手掛(財政担当)に抜擢された。彼(堀田正敦)が総裁となって編纂した『寛政重修諸家譜』は、大名・旗本の家譜を集成したもので、現在では信頼できる大名・幕臣事典としてすべての近世史研究者に恩恵を与えている。

 伊勢国薦野藩主土方雄年は、青山辺に下屋敷を持っていたが、屋敷内の庭で牡丹を栽培し、丁寧に花壇などをこしらえ、近所へチラシを配り、見物したい者はこのチラシを持参するようにと触れた。これがたいへんな評判となり、歴々の旗本の奥方なども見物に訪れ、屋敷内には茶屋が三軒、飴売りが五軒出た。庭に座敷のような場所もあり、そこでは踊り浄瑠璃を上演させたという。これは、下屋敷を使った商売だった。

 この頃の庶民は、こうした場所には目がなかった。神社仏閣の門前には看板娘に給仕させる水茶屋が流行り、看板娘は錦絵にもなって評判を呼んだ。浅草観音門前の難波屋の娘は高慢になり、自分では茶を出さず手伝いの女に茶を出させたという。『よしの冊子』は、幕府役人の生態から江戸の世相まで窺い知ることができる希有の史料なのである。

 ◇角川新書

KADOKAWA 本の旅人
2018年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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