軍人に必要な資質は「禁欲」 第二次大戦時の指揮官の人物像に迫った軍事史研究者が語る

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指揮官たちの第二次大戦 : 素顔の将帥列伝

『指揮官たちの第二次大戦 : 素顔の将帥列伝』

著者
大木, 毅, 1961-
出版社
新潮社
ISBN
9784106038808
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

「熱なき光」を当てて描いた軍人の肖像

[文] 新潮社


大木毅さん

南雲忠一、カール・デーニッツ、そしてジョージ・S・パットンは、本当に「名将」だったのか? 第二次大戦で活躍した指揮官の人物評を見直した選書『指揮官たちの第二次大戦―素顔の将帥列伝―』が刊行。戦後永らく日本を支配してきた俗説を排し、日進月歩の最新研究に基づいて明かされる、将軍たちの知られざる言動と意外な素顔とは? ウクライナ侵攻で再注目された『独ソ戦』の著者で軍事史研究者の大木毅さんが語った。

 ***

三年前に上梓されてベストセラーになった『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)が、今回のロシアのウクライナ侵攻によって再び注目を浴びています。

大木 こんなことになるとは思ってもおらず、驚いています。『独ソ戦』は今、累計で十六万部を超えているのですが、これだけ多くの読者に読んでいただけたのは、平和憲法下の日本にあっても、戦争を「臭い物には蓋」で済ませることができなくなってきた、そして、戦争とは何なのか、軍隊とはいかなる原理で動くものなのかという関心が高まってきたからではないかと思っています。

この戦争と『独ソ戦』の内容との共通点を感じ取ったメディアからの取材も多いと聞いていますが。

大木 『独ソ戦』が、さらにリアルになって再現されたという感覚なのでしょう。同じ地域で、しかも独ソ戦では使われなかった生物化学兵器や核兵器まで使用されるのではないかと。独ソ戦は、途中からイデオロギーの戦争、世界観戦争という側面がどんどん強くなっていったのですが、現在のロシア軍も、通常兵力でウクライナを打ち負かすつもりが果たせず、「ウクライナはナチスだ」などと主張し始めたり、住民の強制移住に手を染めたりと、非常に独ソ戦の既視感がある。『独ソ戦』の刊行から三年が経ちましたが、刊行当時よりもその内容がよりアクチュアルに感じられる、ということでしょうか。

大木さんご自身についてお伺いします。『独ソ戦』刊行以前のご経歴について、よく知らない読者も多いのではないかと。立教大学と大学院で、ドイツ現代史を学ばれたのですね。

大木 経歴としてはそうなのですが、大学院に進む前に、中央公論社(当時)の『歴史と人物』という雑誌で二年間、名物編集長だった故横山恵一さんの助手を務めていました。アドバイザーだった半藤一利さんや秦郁彦先生の薫陶を受けつつ、ただ一人のスタッフとして、編集者のイロハを叩き込まれましたね。

その後、大学院を経て、ドイツのボン大学に留学された。

大木 この頃から文部省の大学「改革」がはじまり、どうも自分のお師匠さんたちのような優雅な研究者生活は無理だと分かってきた。スタートラインから人生設計を間違えたわけです(笑)。そこで千葉大を振り出しに、明治、法政、日大など十数校で非常勤講師を務めました。そのまま辛抱していれば、どこかのポストに収まっていたのかもしれませんが、これは憧れていた生活とちがうなあと悩んでいた時に、アルバイトで雑文を書いていたこともあって、『歴史と人物』で縁があった中央公論社から「小説を書いてみないか」と声がかかりました。

『魔大陸の鷹』シリーズの一巻ですね。これを手始めに「赤城毅」名義で、六十点を超える小説作品を発表された。

大木 当時はまだ出版界が元気で、全くの新人の初版を二万五千部刷りましたからね。第二作もまたよく売れたので、自由業のリスクを背負うとしても、ものを読んでは書く暮らしがかないそうだと判断しました。ただ、小説を書いている間もドイツを中心に軍事史関係の資料は読み続けていて、二〇一〇年ごろから短い文章を発表するようになった。それをまとめてもらったのが、二〇一六年の『ドイツ軍事史 その虚像と実像』(作品社)です。

ここから本格的な軍事研究の著作活動が始まり、二〇一九年に『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』(角川新書)と『独ソ戦』が刊行され、現在に至るわけですね。それでは、本書『指揮官たちの第二次大戦 素顔の将帥列伝』について伺います。大木さんの著作は、これまでドイツ陸軍や日本陸海軍をテーマにされたものがほとんどでしたが、本作では第二次大戦で活躍した六カ国十二人の軍人を、幅広く取り上げておられます。その意図は何でしょうか。

大木 私はジャーナリストとしては日本、研究者としてはドイツがフィールドだったのですが、一方で、例えば同時代のアメリカや諸外国はどうだったのかも考えてみたい、そういう志向が若い頃から強かったんです。大学院生の時には、成城大学の田嶋信雄教授や、今は東大大学院教授の加藤陽子さんたちと「第二次大戦史研究会」をやったりしていましたからね。しかし、ドイツや日本以外のことを本格的にやろうとすれば、これは無理があります。ただ、正面から分析するのではなく、ピンポイントで、ヒューマンインタレストに基づいた取り上げ方なら、専門ではないフィールドの軍人についても、可能なのではないかと考えた。第一章で書いた南雲忠一で言うと、戦死する前に、サイパンで若い女性とテニスに興じていて、ビールを飲みながら「こういうのが一番幸せなんだ」と呟く。このエピソードに出会った時に、これは面白い、別の側面からの南雲像を描くことができそうだと感じました。口はばったい言い方にはなりますが、歴史学よりも、文学に近いアプローチだと思います。

知られざるエピソードを掘り起こして、人物の素顔に迫るという手法は、南雲以外の章でも貫かれていますね。

大木 分析の対象として意味があるかというよりも、どこかに面白いところがあるか、何かを象徴する人物かどうかということが、この十二人を選ぶ際の基準でしたからね。

著名な軍人だけでなく、トム・フィリップス(イギリス海軍)やウィリアム・スリム(イギリス陸軍)など、一般的に有名とは言えない軍人。また、経済担当だったゲオルク・トーマスや軍医のエルンスト・ローデンヴァルト(いずれもドイツ陸軍)のように、軍事以外の分野で活躍した軍人も紹介されています。シャルル・ド=ゴール(フランス陸軍)も、軍人として扱われることは少ないですよね。

大木 やっぱり、ちょっと斜めから照らしてみようと思ったんですよね(笑)。ド=ゴールなどは、日本語でもたくさん伝記が出ていて、今さら自由フランスの指導者としてとか、戦後のアルジェリア独立の際にどう対処したかとか、政治家としての業績を書いても仕方がない。けれども、軍人としては、先見の明をもって戦車の運用をいくら進言しても受け入れられず、最後の最後に「ゆけ、ド=ゴール!」なんて言われて負け戦に投入されるのですから、不遇といえなくもない。そういうところが、むしろ面白いのではないかと。

ド=ゴールが軍人だと知ってはいても、機甲師団を率いて、そんな目に遭っていたとは知りませんでした。

大木 それから、日本では知られていなくても、非常にシンボリックだと感じた人を選んだりしています。例えばトーマスですね。ドイツのような資源のない国が本気で総力戦を実行して、正攻法で勝とうと思うと、とてつもなく非人道的なことをやらざるを得ない。しかも、それをやっても勝てないとなると、指導者であるヒトラーが駄目だからだ、排除しろと、反ヒトラー運動に行ってしまう。

彼は戦後、連合軍にも「オポチュニスト」と酷評されますが、生きた時代が違えば大きな業績を残したかもしれない。読みながら、「あり得たかもしれない歴史」に思いを馳せられるのも、この作品の面白さです。それから、特に日本で名将と評されている軍人、例えばデーニッツなどは、今も潜水艦乗りの崇敬の的になっているわけですが、そうした人物に対しても、従来の評価を変えなければならないような素顔に迫っておられます。

大木 私もロンメルや山本五十六(『「太平洋の巨鷲」山本五十六 用兵思想からみた真価』〈角川新書〉参照)については、正面から軍人としての評価を行っています。ただ、繰り返しになりますが、今回は人間としての面白みに重きを置きました。山口多聞などは、書き尽くされた感がありますし、最初は取り上げる気はありませんでした。ところが、夫人の手記をみると、真珠湾攻撃などの第一段作戦から帰ってきた山口の髪を刈ろうとしたら、これまでにはなかった白髪がどっと増えていたというのです。これで書けると思いました。

ウェブや雑誌に連載された十章に加えられた書き下ろしの新章には、ソ連陸軍のジューコフと、先に挙げたイギリス陸軍のスリムが登場します。独ソ戦で活躍したジューコフはともかく、スリムを知る読者はそう多くはないでしょう。

大木 スリムは、イギリスではモントゴメリーと並ぶ第二次大戦の有名な指揮官なのですけどね。たしかに、日本ではインパール作戦に関する文献が多数あるわりには、スリムがクローズアップされることはあまりないですね。

日本では、インパール作戦の失敗は指揮官・牟田口廉也の無能ぶりによるものと理解されることが多い。しかし、敵の英印軍の存在、とりわけ指揮官というファクターが語られることはほとんどありません。

大木 牟田口については、近々新しい伝記が出るようですし、ここでは評価を控えておきましょう。しかし、片や日本軍では、作戦遂行中の司令官が、夜な夜な芸者を揚げて宴会をしていた。一方で英印軍では、貴族ではない叩き上げのスリムが、前線の兵隊に「おお、がんばっとるな」と声を掛けて回っていたんです。指揮官がこれでは、勝敗は明らかですよね。

スリムと相対した水上源蔵を取り上げた章では、兵隊を思いやる水上と、その水上に個人宛ての死守命令を出す参謀の辻政信の、軍人としてのありようの違いが、強烈な印象を残します。

大木 辻政信がどういう人物で何をしたかということは、ある世代までは誰でも知っていたわけです。ところが、最近では、妙に持ち上げるような風潮があります。だから、軍人として、という留保を付けた範囲内でも、きわめて問題があることを、ちゃんと書いておきたかったんです。

この章は他と比べてちょっと長く、記述の文学性が高い。大木さんの思いが溢れているように感じられます。

大木 それは文中に、丸山豊さん(『月白の道 戦争散文集』中公文庫)や野呂邦暢さん(「死守! 知られざる戦場」『月刊文藝春秋』)を引用してるからじゃないですか(笑)。

かくのごとく、強い個性を持ち、一筋縄ではいかない軍人たちを描かれる際に、特に気を配られた点は何でしょうか。

大木 当然のことながら、私にも好き嫌いがあります。素直に面白い人物だと好感をもって書いたものもあれば、人物はいけ好かないがシンボリックな意味で面白いと感じて書いたものもあります。ただ、これは本作に限りませんが、執筆に当たる際に拳々服膺している、秦郁彦先生の言葉がありまして……。「歴史家の仕事とは、熱なき光を当てることだ」というものです。対象に光を当てて、克明に見ていくわけですが、その光に、イデオロギーであるとか、好き嫌いであるといった熱が含まれていると、例えて言えば裸電球で照らしているようなもので、対象はその熱で変質してしまうかもしれない。だから、「熱なき光」を当てることが肝心だと。自分にも当然、熱はありますから、それを取り除いて臨まなければいけない。

本作でも、そのことが貫かれている。

大木 もちろんです。同様に禁欲的な姿勢で臨んだ、山本五十六の小伝のあとがきに、人間的に非常に魅力があると書いた。ところがネットなどで、「大木は五十六びいきだから甘いんだ」などと書き込む人がいましてね(苦笑)。歴史的個性に対するというのは、そういうことではありません。

十二人の評伝の後に、新たに終章として「現代の指揮官要件――第二次世界大戦将帥論」を書き下ろしていただきました。

大木 今回はいわば搦め手からのアプローチでしたので、最後に正攻法の補足を付けておこうと考えました。今、第二次大戦の軍人を評価するには、いかなる基準で、どのように進めるのかを確認しておくべきかなと。

十二人のエピソードを思い出しながら、最後に総括するといったイメージですね。終章はコンパクトながら、大木さんの軍人評価のポイントが的確に示されています。それを読めば済む話ですが、あえて伺うならば、様々なレベルの指揮官に、共通して必要な資質とは何でしょうか。

大木 どのポジションの軍人でも必要とされるのは、やはり「禁欲」でしょうね。得られるものに見合わない兵の犠牲を出してでも、勝ちたいという欲、上官に価値ある報告をしたいがために無駄な攻撃をかけるという欲。名誉欲とか達成欲といったことなんでしょうが、これらを克服することが一番大切なのだと思います。

今回の十二人のほかに、描いてみたい軍人はまだ残っていますか。

大木 ガダルカナルで日本軍を打ち負かした、アメリカ海兵隊のヴァンデグリフトは書いてみたいですね。それから、東條英機のライバルだった日本陸軍の酒井鎬次も興味深い。

続編『指揮官たちの太平洋戦争』も、見えてきますね。楽しみにしております。

新潮社 波
2022年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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