二重言語の街でどんどん生まれ変わってゆく著者

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カタルーニャ語小さなことば僕の人生

『カタルーニャ語小さなことば僕の人生』

著者
田澤耕 [著]
出版社
左右社
ISBN
9784865280890
発売日
2022/06/27
価格
2,200円(税込)

二重言語の街でどんどん生まれ変わってゆく著者

[レビュアー] 渡邊十絲子(詩人)

 日本語が急に使えなくなることを想像してみてほしい。ある時政権が替わり日本語使用が禁止される。学校の教科書も日本語ではなくなるし、仕事でも日本語を使ってはいけない。それはどれほどの苦痛だろうか。いやそれにも増して、ひとつの文化の消滅危機である。世界を見渡せば、このような言語環境に置かれている(またはかつて置かれた)人は少なくない。自分たちの言語で小説や学術書が読めるのも、演劇や歌を楽しめるのも、幸運なことなのだ。

 著者はかつて銀行員であり、語学研修のためにバルセロナに滞在した。習ったのはスペイン語。しかし学校の外側ではスペイン語ではない言葉が使われていることに気づく。それがカタルーニャ語だ。スペインの東端カタルーニャ州(バルセロナはそこにある)では、1975年まで続いたフランコ政権下、カタルーニャ語の使用が禁じられていた。そのため現在でも二つの言語を使い分ける。言語環境に陰影があるのだ。偶然得られたこの環境を活かしてどんどん生まれ変わっていった著者の、これは半生記である。

 先行きの見通しが確定しないまま銀行員をやめるのもなかなかの勇気だと思うが、著者は学者に転身するために論文をたくさん書き、大学に職を得て教員になった。それもまた容易なことではないが、この本に涙ぐましさはない。こういう状況になったから、このようにした。その柔軟な姿勢がこの本の見どころなのだ。「こうしろ」と言われたときになんとか適応する能力は、銀行員時代に磨いたものだろうか。

 カタルーニャ語の辞書をつくる、カタルーニャ語で本を書き現地でベストセラーになる。自分では「それをするには力が足りない」と思っているが、足りなさをどう補うかという方へ頭がどんどん回転していく。その行動力と展開の速さが小気味よい。他者からの評価をおそれない、いさぎよい魂を見る。勇気がわく。

新潮社 週刊新潮
2022年8月4日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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