「天下分け目の戦い」を巡るいくつもの疑問が氷解

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論争関ケ原合戦

『論争関ケ原合戦』

著者
笠谷, 和比古, 1949-
出版社
新潮社
ISBN
9784106038877
価格
1,650円(税込)

書籍情報:openBD

「天下分け目の戦い」を巡るいくつもの疑問が氷解

[レビュアー] 原田泰(エコノミスト)

 本書は、関ヶ原合戦は、単なる豊臣方と徳川方との戦いではなく、豊臣政権の内部分裂と家康の天下取りの野望が複合したものとする。

 内部分裂の種は、朝鮮出兵にあった。日本軍は補給路を断ち切られ、苦戦する。加藤清正軍は、蔚山城で、明・朝鮮軍の奇襲を受けて籠城したが、食糧も足りず飢餓地獄に陥った。黒田長政らの援軍が囲みを解き、加藤は九死に一生を得た。しかし、敗退する明・朝鮮軍に対し、追撃戦をしなかったことで秀吉の怒りをかい、黒田長政らは所領の一部を没収された。救援兵たちにしてみれば、飢餓状態の城兵を見て、追撃戦をする気力もなくしたということだろう。

 加藤・黒田らは、秀吉の怒りは、石田三成一派の讒言によるものと恨みを募らせる。ここに三成ら吏僚派と清正ら武功派の対立の根がある。後に家康は、関ヶ原の戦いの1年前に、追撃不十分との判断は誤りとして、所領を還付している。武士のプライドを心得た家康は、ここで、豊臣武功派の心を掴んだのだろう。

 その後の関ヶ原の合戦に至る経緯は複雑だが、豊臣系武将を含む上杉景勝討伐軍を率いた家康が大坂を離れた機会に、三成は反家康の乱を起こし、さらに豊臣方の総意として、家康に対する宣戦布告をさせる。

 家康は、反転して豊臣方と戦うが、豊臣系武将が最後まで家康側で戦うだろうかと悩む。家康としては、戦場で裏切られるのが一番危険なのだから、敵なら敵として最初から敵陣にいて欲しい。ところが、豊臣武功派が多い東軍は、進撃を早め、西軍武将を撃破し、関ヶ原の決戦に向かう。そこに家康軍は追い付き、安全のため家康軍とは進路を違えた秀忠軍は遅れるという失態が生じる。しかも、家康、秀忠軍はそれぞれ3万であったが、強力なのは秀忠軍で、家康軍は守備的な軍であったという。

 関ヶ原の戦いは、旧豊臣傘下の武将の力によって圧勝する。その貢献は、西軍から没収した632万石の8割強が、旧豊臣方武将に与えられていることから明らかだという。

 本書で、秀忠軍の遅参など関ヶ原を巡るいくつもの疑問が理解できた。謎解きの経緯は明快である。しかし、豊臣武功派の大名は、関ヶ原の後でも秀頼が成人の暁には天下人になれると信じていたのだろうか。確かに、豊臣武将が、秀頼様御為と言っていたのは事実だが、本当にそう思っていたとは限らない。彼らは、秀吉が織田から天下を簒奪するのを目撃するどころか協力・実行していたのだから。

新潮社 週刊新潮
2022年9月8日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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