物語の効力と危うさの両方を「予言」する 鴻巣友季子『文学は予言する』

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文学は予言する

『文学は予言する』

著者
鴻巣 友季子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/文学総記
ISBN
9784106038938
発売日
2022/12/21
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

物語の効力と危うさの両方を「予言」する

[レビュアー] 小川公代(上智大学外国語学部英語学科教授)

小川公代・評「物語の効力と危うさの両方を「予言」する」

「物語の力」というものはシェイクスピアの時代から、あるいはもっと昔から、情動に訴えるものであるという位置づけがなされてきた。『ジュリアス・シーザー』ではシーザーを暗殺したブルータスによる理性的な演説よりも、友アントニーのローマ市民の感情に訴える演説が彼らの心を動かし、「暗殺者たちを殺せ! という言動として爆発していく」さまが描かれている(一○二頁)。意外なことに、著者は友愛の人アントニーの語りをドナルド・トランプに、またブルータスの演説をバラク・オバマらのそれに例えている。決して雄弁ではないトランプと、自分には「知恵も言葉も権威もな」いと言いつつ、大衆の感情を揺さぶるアントニーの二人には「一脈通じるところがある」というのだ(一〇二─一〇三頁)。物語の効力と危うさの両方を文学はまさに「予言」する。

 また、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』や続編『誓願』(著者訳)を彷彿とさせるポーラ・ヴォーゲルの戯曲『ミネオラ・ツインズ』に描かれる社会と妊娠中絶の是非をめぐる論争は、トランプ政権よりも以前に発表された作品であるにもかかわらず、それ以降のフェミニズム、LGBTQ+の人権運動などへの保守派によるバックラッシュの情況と驚くほど重なる。著者によれば、妊娠中絶禁止法の合憲性をアメリカの連邦最高裁が認めた昨年のことを振り返ってみても、これらの作品には「今」が書かれているのだ(三七頁)。

 本書はこれまでに著者が書いて発表した原稿に加筆修正がなされたものであると説明されているが、それが信じがたいほどの精度で書かれている。考えてみれば、著者は『嵐が丘』『灯台へ』『風と共に去りぬ』といった古典作品の新訳のみならず、『誓願』やJ・M・クッツェーの三部作などの訳を手がけた日本屈指の翻訳家であり、かつ優れた文芸評論家でもある。そんな練達の書き手が、書評や時評を執筆しながら思い浮かんだ三つの主題で本書は構成されている――有機的に一冊の本に束ねられていても不思議はない。

 第一章「ディストピア」は本書の白眉である。「われわれの文明の課題」となりうる問題を、「少女小説的感性」を用いて表現する小川洋子の『密やかな結晶』とアトウッド作品を結びつけながら論じている。また、マイケル・サンデルのメリトクラシー論を援用しつつ、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』、マルク・デュガンの『透明性』、平野啓一郎の『本心』などを分析することによって、「今の目で」文学を読むことの意義を打ち出している。第二章の「ウーマンフッド」では、十八世紀の古典文学から最近話題を呼んだメアリー・ビアードの『舌を抜かれる女たち』まで幅広く取り上げている。たとえば、レイプ被害を受けた女性が咎められ「沈黙させられる悪しき風習」(一一○頁)の象徴であるメデューサの物語が「今」のアクチュアルな女性の問題と接続される。キャロライン・クリアド=ペレスの『存在しない女たち』やカトリーン・マルサルの『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』において光が当てられる、聞かれない性、あるいは「見えない性」としての女性や彼女らのケア実践にも注目している。

 そして第三章「他者」では、レベッカ・L・ウォルコウィッツの『生まれつき翻訳』などを参照しながら、いかに翻訳文学と「他者」理解が繋がっているかを論じている――「国、文化圏、言語間の大いなる対話は、翻訳という行為を通して可能になる」(一九三頁)。著者はまた、二○二一年に米大統領就任式でアマンダ・ゴーマンが朗読した英詩を邦訳したり、ドイツ語と日本語の両方で創作する多和田葉子を評したりすることを通じて、言葉の政治性を実践してきた。本書でもっとも炯眼なのは多和田が用いている「旅」の意味をめぐる議論である。ドイツ語の「旅」(reise)は、「『どこかに行って帰る』までの間」を意味する日本語の「旅」とは異なり、「完結しなさ」に力点が置かれているが、それが多和田作品における「旅をしているのが常態」(二三五頁)の説明にもなっている。

 多和田の完結しない「旅」に似ているのが、物語への逡巡を表す「ネガティヴ・ケイパビリティ」という能力/常態である。読者の反応が全体に「速く」なっている背景には、ネット空間の「拡散速度」(二七三頁)もあるが、それ以外に著者は「共感至上主義」を挙げている。しかし「答えを得ずに宙づりになりつづける」力(二三○頁)があれば、シングルストーリーにのみ込まれることは妨げられるだろう。たとえば、本書は多和田文学に見られる「言葉のズレやヌケ」を「社会通念や固定観念、先入観や差別意識」を脱臼させていく妙技として捉えている(二二八頁)。

 二言語の間で宙づりになりながら、言葉を選びとる“翻訳”に従事する著者がルイーズ・グリュックの「平易な語彙で日常を綴るその詩」に「遅効性の言葉」(二七七頁)を見いだすとき、本書の読者もまたその感性や情動にゆっくり、じんわり感染する。

新潮社 波
2023年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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