本当に欲しいものは、「そうでもないもの」を捨てないと手に入らない

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前向きに、あきらめる。 一歩踏み出すための哲学

『前向きに、あきらめる。 一歩踏み出すための哲学』

著者
小川 仁志 [著]
出版社
集英社クリエイティブ
ジャンル
社会科学/社会科学総記
ISBN
9784420311007
発売日
2023/01/26
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

本当に欲しいものは、「そうでもないもの」を捨てないと手に入らない

[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)

「あきらめる」ということばには、どこかネガティブな印象があります。しかしその一方、哲学者である『前向きに、あきらめる。 一歩踏み出すための哲学』(小川仁志 著、集英社クリエイティブ)の著者は、あきらめについて次のように述べています。

実はあきらめには、ためらう、捨てる、降りる、開き直るといったように、プロセスや段階がある。これはあきらめ方の種類といってもいいだろう。その中にもまた、選択する、決断する、逃げるといった要素が絡んでくる。

そうした心の動きを丁寧に確認することで初めて、人は善く生きていけるのだと思う。とりもなおさずそれこそが、哲学の意義にほかならない。(「はじめに」より)

「あきらめる」に至るすべての行為や想いは、そう簡単に捨てられるものではないはず。それどころか、ひとつひとつの行為や想いの意味さえ、曖昧でよくわかっていないことが多いかもしれません。それらをていねいに解きほぐしていかない限り最後の一歩を踏み出せないわけで、だからこそ哲学が求められるということ。

だとすれば「あきらめる」ことについても、そうした角度から問いなおす必要があります

あきらめるという言葉を聞くとまず、それはやってはいけないことだと感じてしまう。一見ネガティブな言葉は、私たちを萎縮させることのほうが多いだろう。

はたして本当にそうなのだろうか? 私たちは言葉に縛られているだけではないだろうか?(「はじめに」より)

本書はこうした観点に基づき、著者自身が「あきらめ」を主題に哲学した軌跡なのだそう。あきらめへと至る軌跡といったほうがいいかもしれないといいますが、ともあれ読者はその軌跡をたどることによって、自分の人生について考えるヒントを得ることができるわけです。

きょうは第3章「捨てる」内の、「捨てることで残るもの」というトピックに焦点を当ててみたいと思います。

希望とは断念すること

株式投資などで、もうそれ以上損をしないよう、損失を確定させる行為のことを「損切り」と呼びます。ギャンブルでも最後に勝てるのは、「負けが込んできたな」と感じたときに適切なタイミングで損切りできる人。

著者は、人生もこれに似ていると指摘しています。勝ち続けることはできないけれど、うまく負けておけば、トータルとしては損をしないのではないかと。

つまり得をするというよりは、マイナスにしない発想。たとえば日常においては「これくらいで済んでよかった」と感じるようなことがありますが、それこそまさに損切りの発想であるわけです。

なお損をしたときに「授業料を払ったと思えばいいよ」というような表現が用いられることもありますが、これは「犠牲を払いつつもなんとか耐えられる程度の損失でとどめ、かつ教訓を得た」ということを意味するもの。だからこそ“授業料”であるのです。

もっと積極的に得をすることを目指して捨てるのが、断念である。哲学者の三木清が、希望とは断念することであると喝破したように、捨てることでかえって希望を手にすることができるのだ。

これは逆説的にも聞こえるが、考えてみればもっともなことである。人は何もかもを手に入れることはできない。時間も予算もエネルギーも限られている。だからほかのことを捨てなければならないのだ。(91ページより)

本当にやりたいこと、実現したいことに絞ってこそ、断念が希望につながるという考え方。それは可能性を高めること。いわば、捨てることが可能性を高めるということ。したがって、本当に欲しいものを手に入れるためなら、“それほどでもないもの”を捨てる覚悟が求められるのです。(90ページより)

捨てられる人だけが得をする

「損して得取れ」ということばがありますが、たしかに小さな損のおかげで大きな得をすることができるなら、あえて損をしたほうがいいのではないでしょうか。実をとるために、どうでもいいものは捨てたほうがいいということです。

なかには、あえて小さな運を捨てることで大きな運にめぐり逢おうとする人もいます。「苦労を買って出る」というように、わざと不運な目に遭っておくわけです。とはいっても、その結果については神のみぞ知ることであり、あくまで精神的なものなのだということなのでしょう。

いや、そうともいいきれないかもしれない。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」だとか、「人間万事塞翁が馬」など、幸運と不運は交互に訪れる、つまり人生における運の総量は決まっているとする教えは山のようにある。

これはまた経験則からもいえることである。多くの人がそのように感じているはずだ。道徳的規範の枠を超えて、あまりにも現実味を帯びた教訓である。だからこそ皆運を使いすぎないように努めるのだ。(93ページより)

とはいえ、運を見越して行為するということはあまりに打算的で、はたしてそうすることで本当に運がもたらされるのかははなはだ疑問だとも著者は述べています。皮肉にも、人間の欲と得は反比例しているように思えてならないのだとも。

欲が深ければ深いほど、結局破損をしてしまう。逆に欲がないほど、結果的に得をしていたりする。それが人生ではないかということです。

何も宗教的教訓だとか、説教じみた話ではなくて、論理的な結論であるように思われる。おそらく、欲が深いと必要以上のことをしてしまうのだろう。それで失敗してしまう。人間、焦ると余計なことをするものだ。

これに対して、欲がないと冷静でいられる。だから不要なことはしないのだ。それどころか、的確に必要な行為をすることができる。なんでも手に入れるためには、不要な行為をすることなく、必要な行為を的確にするのが一番だ。(93〜94ページより)

余分なものを捨てた人のところに多くのものが入ってくるのは、そういう意味で必然だということ。しかし、そうだとわかっていながら、なかなか実践できないのが人生でもあります。だから、捨てられる人だけが得をするようになっているのだろうと著者は推測しています。

いいかえれば捨てられる人には、なにが大切で、いまなにをするべきかがはっきり見えているということなのかもしれません。(92ページより)

著者が本書のなかで紹介しているのは、自身が哲学で困難によって乗り越えてきた経験や、さまざまな哲学から学んだ英知。また、思いがけない事態を前に、それでも人生を前に進めていくための方法についても論じているそう。それは、前向きにあきらめるための“一歩踏み出す哲学”なのだといいます。

Source: 集英社クリエイティブ

メディアジーン lifehacker
2023年3月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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