小説の、まったく新しい楽しみ方とは? 白石一文が『松雪先生は空を飛んだ』で目指したこと

インタビュー

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松雪先生は空を飛んだ 上

『松雪先生は空を飛んだ 上』

著者
白石 一文 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041132234
発売日
2023/01/30
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

小説の、まったく新しい楽しみ方とは? 白石一文が『松雪先生は空を飛んだ』で目指したこと

[文] カドブン

構成・文 タカザワケンジ
写真 川口宗道

空を飛ぶ人間がいたら、どうなる?
読み始めたら止まらない一気読み小説は、そんなシンプルな思いから始まったという。
超絶技巧が凝らされたエンタメ作品に込められた思いを語っていただきました。

■白石一文インタビュー

小説の、まったく新しい楽しみ方とは? 白石一文が『松雪先生は空を飛んだ』で...
小説の、まったく新しい楽しみ方とは? 白石一文が『松雪先生は空を飛んだ』で…

――『松雪先生は空を飛んだ』は、タイトルの通り「人間が空を飛ぶ」という現象をめぐる物語です。白石さんご自身は空を飛びたいという願望があったんでしょうか。

白石:子供の頃から飛びたいと思っていました。『松雪先生は空を飛んだ』は、ただそれだけで書いたと言ってもいいくらいなんです。空を飛びたいと思ったことはありますか?

――ないんです。高所恐怖症で。

白石:飛べば治りますよ。鳥に高所恐怖症はいないでしょう。地面を歩くのと一緒だから。
 僕もね、実は人後に落ちない高所恐怖症なんです。高いところに上ると飛び降りたくなる。だから高い建物に上ると、とにかく外を見ないようにします。眠っているときに見るのも高いところから落ちる夢ばかり。誰かに突き落とされたり、間違って落っこちたり。なんでこんなに怖いのか? 飛べないからだ。空を飛べたらいいのになあ、とずっと思っていたんです。空を飛ぶ映画が大好きで、一度小説で空を飛ぶ話を書いてみたい。それがやっと実現しました。

――『松雪先生は空を飛んだ』の飛行シーンはたしかに気持ちがよさそうですね。飛べたら、と考えたことがない私でもそう思いました。そんなファンタジックな設定のある物語が、スーパーのお惣菜コーナーの話から始まるのが意外です。

白石:ヤオセーというスーパーチェーンが出てきますけど、モデルになっているのは知る人ぞ知るスーパーなんです。うちの近所にもあったのでよく行っていたんですが、そこで売っているプリンがすごくおいしいんです。このおいしい商品を何かに使えないかと思って、作中に出しました。

――すごく重要な役割を果たす、あの「朝採れたまごの焼きプリン」ですね。モデルがあったとは!

白石:人間が空を飛ぶって、まったく非現実的で非日常的ですよね。一般小説の世界とは水と油じゃないですか。スーパーの話から始めたのは、その水と油をかき混ぜてゲル状にするため。読者にわからないように非現実的なことを混ぜて、これからどうなるんだろう、という期待を抱いてほしかったんです。知らない森に足を踏み入れるように。

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小説の、まったく新しい楽しみ方とは? 白石一文が『松雪先生は空を飛んだ』で…

――なるほど。空を飛ぶ人の目撃談が紹介されるうち、松雪先生という私塾を開いていた先生の最終講話を受けた当時の小~高校生たち八人が浮かび上がります。講話を受け、大人になったのが、猫の保護活動ボランティア、警備員、スーパーの創業者、俳優、プロレスラー、タクシー・ドライバーなど多種多様な人たちです。

白石:前半がとくにそうですけど、元塾生たちに関わるいろいろな年齢の、いろいろな職業の人たちが、現実にありそうな事件に巻き込まれます。たとえば、ワインの輸入販売をやっている男性と、デジタル・マーケティングのコンサルタントの女性が出会って、泥沼の恋愛にはまるという話があったりする。それだけなら飛ぶ人は関係ないですが、最後の最後で空を飛んできた人に救われる。

――最悪の状況で空を飛ぶ人が登場するんですよね。

白石:ビルの屋上から落ちてきた人が、地上まで30センチのところでピタッと止まるわけです。すーっと身体が持ち上がって、すとんと地上に降りて。あとから思い出すと、空を飛んでいるわけですよね。それを書きたかった。それを書くために、ずーっとためてためてためて、飛ぶこととはぜんぜん関係ない、ワインの話とか、男女の話を書くわけです。

――『松雪先生は空を飛んだ』は、最初は関係ない、と思っていたことが実は関係してくる小説でもあるんですけど、とりあえず、空を飛ぶこととは無関係な現実の中にも面白い話があって読者を引っ張っていく。そのうえで、人が飛ぶっていう怪現象が起きる。いわば二階建ての小説なんですよね。

白石:年代について言うと、塾生たちの年齢は昭和33年生まれの人がコアでその前後がいる。昭和33年は僕の生まれ年なんです。彼、彼女たちが生きた時代を実感を持って書けるので、そこに若い人たちを掛け合わせて物語をつくっていきました。たとえば、プロレスラーが出てくるのは空前のプロレスブームを経験しているから。この前、亡くなったアントニオ猪木が大スターだった。僕は猪木対アリ戦をリアルタイムで見ていますから。

――昭和、平成、令和の歴史を空を飛ぶ人たちがどのようにすごしたのか、という読み方もできますね。

白石:日常の中に突然、空飛ぶ人が現れる。僕はそれだけですごく面白いと思うんですよ。三話の常見得次郎の話もそう。理容専修学校を出て床屋になるはずが、食品卸の会社に入る。好きな女の人ができるんだけど、彼女がたちの良くない男とつきあっていて、その男は腹上死してしまう。彼女から死体をなんとかしてくれって泣きつかれる。そのとき空を飛べたら、どうするか。

――白石さんの小説の醍醐味は、現実にありそうな面白い話をつくり出すことと、ありえない話が同居するところ。『松雪先生は空を飛んだ』は、その2つの要素が火花を散らしていて、これまで以上にエンターテインメントしているなあ、と。

白石:大げさに言うと、この小説は、この世の中ってしょうもないじゃんっていうところから出発してるんですよ。僕はさっきも言ったように昭和のど真ん中に生まれたんだけど、二つあれ? って思っていることがあって。
 一つは、科学技術の進みが遅いこと。僕たちはテレビで『鉄腕アトム』や『宇宙少年ソラン』をリアルタイムで見ていた世代。その頃の子供向けのSFアニメをSF同人誌の「宇宙塵」の主宰者がSF考証をしていたり、筒井康隆さんとか一流のSF作家が『スーパージェッター』の脚本を書いていたから、SF的感覚は世界レベルだった。作中の未来予測はかなりちゃんとしていて説得力もあったんです。でも、『鉄腕アトム』の通りなら、今頃、人類はとっくに太陽系を飛び出しているんですよね。
 実際、僕が小学校五年のときにアポロ11号が月面着陸に成功してちゃんと地球に戻ってきた。そのあとは一気呵成に宇宙技術が進んで、月にコロニーをつくって、と思っていたんです。ところが異様な足踏みが続いている。面白くないな、というのが一つ。
 もう一つは、日本では戦争は起きなかったけど、そのわりにちっともいい世の中になっていない。僕らの子供の頃は傷痍軍人が街にいて、親からも戦争の話を聞かされたし、戦争はそう遠くないものだったんです。だから戦争が怖かったし、絶対に行きたくなかった。このまま戦争が起こらなければ、きっといい世の中になると思っていたんです。でも、そうなってない。
 人間ってどうにもならないよねっていうのが結論で、もう空を飛ぶしかないよね、と。

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小説の、まったく新しい楽しみ方とは? 白石一文が『松雪先生は空を飛んだ』で…

――人間が飛べるようになることは、たんに飛ぶ、ということだけではない、と作中で書かれていますね。意識も変わるし、世界観も変わる。その先駆者たちが松雪先生とその教え子たち。そして、彼らの人生が人間が飛ぶに値するかどうかの試金石になる。松雪先生の教えを受けた7人を中心に人間関係の網の目が複雑に入り組み、つながることでドラマが生まれます。最初に人間関係のチャートをつくったりされたんですか。

白石:つくってないですね。僕はわりと細かいことでも頭の中で処理できるほうなんです。だいたいのことはできるから、頭の中だけでは処理できないような大変なことをやろう、というのが今回の挑戦でした。
 最初のほうはよかったんですけど、途中から難易度が上がりました。最後に松雪先生と教え子たちを集めようと思っていたので、後半はどうやったら全員が集まれるのか、頭を悩ませましたね。

――人生って意外なつながりが見つかったり、偶然に驚かされたりしますよね。『松雪先生は空を飛んだ』もそうですが、白石さんの作品を読むと、人の秘密が明かされ、意外な関係が暴露されるだけで十分面白い物語になるんだなと感じます。『松雪先生は空を飛んだ』の場合、人間が飛ぶという爽快感のある世界と対照的に、地上の人間関係の絡み合いが重力を持っていて、天と地の両方から読者の興味を引っ張っていきます。

白石:そう言っていただけると嬉しいんですが、読者のなかには人間関係のつながりをめんどくさく思ったり、こんがらがったりする人もいるんじゃないかという不安もあるんです。でも米粒に写経をする人がいたら感動するじゃないですか。それと同じように絡まりあった糸を解きほぐしていくような快感ってあると思うんです。派手な解決を期待する読者もいると思いますが、僕はそれよりも、地味な人間関係がただただより合わさっていくことのほうがおもしろいと思う。戦闘機が空を駆け抜けるよりも、マイクロバスが空を飛ぶほうが楽しいと思うわけですよ。

――マイクロバス! この小説の名場面ですね。『松雪先生は空を飛んだ』はアンチ・アベンジャーズだと思います。特殊能力を使って世界を救うわけじゃなく、あくまで日常の中での異能力が描かれています。

白石:そうなんです。ヒーローを期待する人もいるかもしれないけど、僕がやりたかったのはその正反対。特殊能力がある人が能力がない人を救うという結末は目指していません。そういう展開を期待した読者には申し訳ないけど、醤油味だと思ったラーメンが味噌味だったとしてもがっかりしないでほしい。食べてみてよ、意外とおいしいでしょ、っていう体験を読者にしてほしいんですよね。
 作者としては読んでいるうちに、読者が小説の新しい楽しみ方に気づいてくれることを期待して書いています。今回はとくに細かく伏線を散らしているので、人によっては二回か三回読まないとわからないかもしれません。でも、それが読みとれたときに、すごい! と思ってくれるんじゃないかなと期待しています。

――『松雪先生は空を飛んだ』は二十代から六十代までが各章で主人公になる群像劇。昭和の歴史も背景にあって、いろんな入り口、楽しみ方があると思います。そして何より、空を飛べたらという夢のある物語です。

白石:こんな世の中だから、空を飛ぶ自分を想像して開放感を感じてほしいですね。

■プロフィール

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■白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。文藝春秋に勤務していた2000年に『一瞬の光』を刊行、鮮烈なデビューを飾る。09年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、翌10年に『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。『我が産声を聞きに』『ファウンテンブルーの魔人たち』『道』など著作多数。

KADOKAWA カドブン
2023年04月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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