「残酷な場数を多く踏んで培われたもの」桐野夏生が“近年稀に見る傑作”と評価 『「AV女優」の社会学』の著者による青春小説

レビュー

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浮き身

『浮き身』

著者
鈴木 涼美 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103551515
発売日
2023/06/29
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

虚空に漂えば

[レビュアー] 桐野夏生(作家)


怖ろしく空疎な「性」の物語(写真はイメージ)

『ギフテッド』『グレイスレス』で芥川賞の候補に選出された鈴木涼美が、実体験を元に描いた小説『浮き身』を刊行した。

 これまで身体を売る女性を考察し、「性」の商品化に対する批評を論じた『「AV女優」の社会学』『身体を売ったらサヨウナラ』などを発表している鈴木が執筆した小説の内容と読みどころとは?

 開業前の無店舗型風俗店(デリヘル)を舞台に描かれた本作について、「これほど凄みのある作品は読んだことはない」と評価した作家の桐野夏生さんの書評を紹介する。

桐野夏生・評「虚空に漂えば」

 主人公の「私」は、ふとしたことから十九年前の記憶を蘇らせる。当時の「私」は十九歳。大学にほとんど通わず、飲み屋でバイトをしていた。

 ある夜、「私」は年上のホステス、梨絵さんと連れだって遊んでいるところを、梨絵さんの知り合いのボーイに誘われて、ラブホテル街に建つ古いマンションの十一階の部屋に導かれる。そこでは、三人の男たちがデリヘル、つまり無店舗型風俗店の開業を目指して準備をしていた。

 いつの間にか、その部屋には男たちの仲間や、女たちが足繁く出入りするようになる。デリヘルで手っ取り早く金儲けを企む男たち、それを手伝う男、何をしているのかわからないけど出入りする男、デリヘルで働きたい女、そしてデリヘルで働く気などない「私」も、なぜか入り浸るようになる。

 部屋の記憶は、「私」の嗅覚によって生々しく支えられている。たとえば、いつも漂っている不穏な酸っぱいにおいは何か。誰かの吐瀉物かもしれないし、コンビニのおにぎりが腐敗しているにおいだったかもしれない。そして、得体の知れないビニールのにおい。

 やがて酸っぱいにおいは、皆が吸う煙草のにおいに凌駕されて、煙草のにおいしかしなくなる。それも、女の吸う煙草と男の吸う煙草は違うにおいがする。男がつけているムスク系の香水。渚ちゃんという子はミント・スティックを両手に挟んでコロコロとやっては、いつもその両手のにおいを嗅いでいる。しかし、「私」が嗅ぐと、渚ちゃんの掌からはヨダレのにおいしかしない。嫌悪感も不快感も特に表されずに、「私」は部屋の爛れをにおいで描く。

 男たちは、肉体的な特徴で表される。デリヘル開業を目論む三人の男は、それぞれ黒髪、金髪、顔長男。部屋にしょっちゅうやってくるガタイの良い先輩や、パソコンでチラシやHPを作成する細眉、そしてデブのヤクザに坊主頭の男。男たちは、なぜか名を与えられない。

 対して、女たちは源氏名で呼ばれる。梨絵さん、マリア、ユリカ、チカちゃん、渚ちゃん、ポンちゃん。

 同世代と言っても差し支えない若い男たちが、女を使ってひと儲けしようとする。金欲しさにデリヘルを厭わない女たちがそこに集まってくる。

 だが、「私」は飲み屋で働いているだけで、風俗をするつもりはない。むしろ、風俗嬢に対して微かな侮蔑感さえ持っている。経営に加わるわけでもなく、「私」はただ単にその部屋にいる。では、「私」がそこにいられる理由は何か。

「誰の性器を咥えることも、別に泣くほど嫌ではなかった。それで部屋に出入りする正当な権利がもらえるならよかった。(中略)この部屋にいる限り、少なくともしばらくは何者にもならずに済むように感じて、出ていく理由を持てずにいた」

「私」は限りなく中途半端な存在である。が、しかし、若い女ではある。部屋にいられるということは、誰も口にはしないが、やはり性の場に共にいるということだ。

 部屋での共通言語はセックスである。誰も意識せずに放たれる言語だ。「私」も、最初の夜に、布団を借りるのだからという理由で黒髪と寝る。そのことには何の感想もなく、単に射精はしなかったと思い出す「私」。

 かように定まりのない「記憶」ではあるのに、ここには悪い夢を見ているような苦い淀みがある。

 心理描写はほとんどなく、執拗に描写される部屋のにおいと風景。いったい、この主人公は何を思い出したいのだろうと、読み手は不安を覚える。

 不安こそが、この小説を覆う空気でもある。そのうち、不安の正体がわかる時がくる。これは、怖ろしく空疎な「性」の物語なのだということが。

 作者は心理描写をしないことに技巧を凝らしている。それは、性に伴うはずの精神を排除した「性」を描くことに成功している。精神を排除した「性」はやりきれないからである。虚しいからである。

 昨今、これほど凄みのある作品を読んだことはない。経験値というものがあるとしたら、この年代の人間の経験値は、私たちが思うより深く、残酷な場数を多く踏んで培われたものなのだろう。もっとも残酷という言葉でさえも計ることのできない、質の違う経験なのかもしれない。『浮き身』は、近年稀に見る傑作である。

新潮社 波
2023年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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