「ここで死にましょうか」行商の旅が失敗し、どん底に落ちたことも…小説家・吉村昭と津村節子の人生

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

吉村昭と津村節子

『吉村昭と津村節子』

著者
谷口 桂子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103552413
発売日
2023/10/18
価格
1,815円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

家庭という共通の根から咲かせたそれぞれの花

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 数々の名作を世に送り出した小説家夫婦の人生に迫ったノンフィクション『吉村昭と津村節子―波瀾万丈おしどり夫婦―』(新潮社)が刊行された。

 芥川賞作家の津村節子さんと記録文学という新しい領域を開拓した吉村昭さんは、文壇で「おしどり夫婦」として知られているが、新婚当初は生活のために行商の旅で挫折し、執筆もままならず夫婦喧嘩も絶えなかったという。

 その二人の人生を綴ったのが、吉村・津村夫妻と交流を続けてきた谷口桂子さんだ。

 本人や息子、元担当編集者など関係者への聞き取りに加え、膨大な作品群と過去の雑誌・新聞記事など資料を詳細に読みこんで解き明かした本作が描き出した愛とドラマとは?

 ライバルとして同志として、お互いの才能と人間を信じ支え合った夫婦の物語の読みどころを、評論家の川本三郎さんが語る。

川本三郎・評「家庭という共通の根から咲かせたそれぞれの花」

「波瀾万丈おしどり夫婦」という副題には形容矛盾の面白さがある。「おしどり夫婦」という穏やかな語に「波瀾万丈」という激しい語は似合わないから。とくにお二人よりひとまわり以上年下の人間には、二人は文学界で揺ぎない仕事をされている「おしどり夫婦」という印象が強く、「波瀾万丈」という語は意外に思われる。

 しかし、二人の生を克明に辿った本書を読むと、「波瀾万丈」の意味が徐々に分かってくる。

 まず若き日の苦労がある。二人は若くして結婚したが(一九五三年)、生活は苦しく、二人でセーターなどの行商の旅に出た。路上で品物を並べて売る。東北からさらに北海道へと流れ、函館、札幌では商売がうまくゆかず、最後は東の果て根室にたどり着いた。真冬の北の海を見ながら身体に子供のいる若い妻は夫に「ここで死にましょうか」といったという。慄然とする。

 吉村はこの時、雪の降る中、商いをする津村を見て、「俺はお前に一生借りができたな」といったという。

 若い頃は夫婦喧嘩も絶えなかった。吉村が手を上げることもあったというから驚く。二人とも、いい小説を書きたいのに書けない。吉村は生活のために意に染まぬ勤めをしなければならない。小説を書く時間がなくなってしまう。二人のあいだには子供も生まれた。津村は育児のために時間が取られる。

 作家志望同士の若い二人は、創作と暮しの板挟みになって苦しむ。喧嘩が多かったのは、二人がそれぞれ、書くことに専念出来る環境になかったためだろう。

 無論、新婚当初はアパート暮し。引越しを繰返した。二人それぞれが書斎を持つなど当時は夢。ひとつの机を共同で使った。同人雑誌の仲間が結婚祝いに贈ってくれた桜材の机だった。この机が作家志望の二人を支えたことだろう。

 津村節子は生活のため、瀬戸内晴美の紹介で少女小説を書いたこともある。津村の稼ぐ原稿料がこの時期、一家を支えた。しかし、少女小説の執筆に時間を取られ、自分が本来書きたい小説が書けなくなる。

 それが津村を苦しめる。ついにそれまで言わなかった言葉を口にする。「あなたも収入の道を考えてください」。

 この頃が夫婦にとっていちばんの修羅場だったことだろう。著者は、二人の暮しを、作家として、同時に生活者として丹念に描き出してゆく。といって二人の内面に無遠慮に立入ることなく、適度な距離を取って描き出している。その点で、二人をはじめ、子息の司氏など関係者の言葉が随所に「引用」されているのが効果を持っている。

 修業時代の苦労を経て、津村は『玩具』によって昭和四十年度上半期の芥川賞を受賞。一方、吉村は、何度か候補になった芥川賞は受賞に至らなかったものの、昭和四十一年、十代の少年少女たちの集団自殺を描いた『星への旅』によって太宰治賞を受賞。夫婦揃って文学界で活躍することになった。

 ただ、そうなると、周囲から雑音が聞えてくる。夫婦ともに作家でいることは難しいとか、どちらか一方が筆を断つべきだ、とか。

 しかし、二人はそういう雑音に耳を傾けず堅実に仕事をし続けた。作家であると同時に、二人は健全な家庭人だった。こういう例は数少ないのではないか。二人が、家庭という共通な根を大事にしたことが大きかっただろう。その根から別々の枝をのばしてそれぞれの花を咲かせた。吉村昭が『戦艦武蔵』の成功によって収入が安定したこと、さらにこの作により記録文学という新しい領域を開拓していったことで、純文学の津村節子とは接点を小さくしていったことも大きいと思う。

 次々に記録文学を書いて、しかも、本が売れる。そういう夫を自分と比較して津村は絶妙な解説をしている。

「私はねえ、あの人が戦車で走っていくそばを必死で自転車漕ぎながらずーっと走ってきたような気がしますね(笑)」

 こうした津村の一歩引いた自己規定も、二人が「おしどり夫婦」であり続けたことの大きな要因だろう。そして、いうまでもなく、吉村が津村を大事に思っていたことが大きい。

 結婚してからも吉村は妻に手紙を書き続けたという。ある時は、こんな。「君を中心に、思いもかけない温い素晴しい家庭を得て、僕は幸せです」。

新潮社 波
2023年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク