『トップガン』にも描けない天才パイロットの物語 佐藤究・待望の新作を紹介

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幽玄F

『幽玄F』

著者
佐藤 究 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309031385
発売日
2023/10/20
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

AND条件とOR条件、本書の満喫にはそれが重要

[レビュアー] マライ・メントライン(ライター)

直木賞作家・佐藤究による最新作『幽玄F』が刊行。本作の魅力をドイツ出身で文筆や翻訳など幅広く活躍するマライ・メントラインさんが語る。

***

『幽玄F』は超面白い、そして困難な物語だ。

 何が困難かといえば、現代ミリタリー系ネタと一般文芸の喰い合わせの悪さの問題。その典型がキャスリン・ビグロー監督の映画『ゼロ・ダーク・サーティ』のケースだ。かのウサマ・ビン・ラディン暗殺作戦のキーマンとなった主人公が、暗殺成功によって「歓喜どころか、ただ徒労感と闇の深さに沈む」という文芸的にみても素晴らしい映画だったが、その質の高さに見合った文化的成功を収めたとは言いがたい。なぜなら、物語の真意を汲み取れる観客層の多くが「これはオバマ民主党の選挙戦略の一環だ」「ビグローがタカ派じみた軍事作戦をテーマにするなんて!」という公開前の先入観による議論の紛糾で興味を削がれたからだ。その結果、特に日本国内ではミリタリー趣味メディアだけが積極的に取り上げる状況となり、「あの場面でDEVGRU(海軍特殊戦開発グループ)隊員が装着していた暗視用ギアは……」といった、映画レビューなのかサバゲー用レプリカ商品の広告なのかよくわからない記事で情報シーンが満ちてしまった。

 なんと歯がゆいことか! 私は今でも怒っている。

 さて、今回の『幽玄F』はどうだろう。河出書房新社が一般文芸系の枠で売り出すからには状況的に有利といえる。が、正直、スタートから一二〇ページあたりまでは(仏教系要素が要所に置かれているとはいえ)わりと遠慮なくミリオタ向け軍事ノベル感満載なのだ。うーむ。果たしてミリオタ以外の人がここまでたどり着けるかどうか、それが読者にとっても著者にとってもズバリ、成否を握るカギとなると思われる。なぜならその地点にある音速の壁みたいなポイントを突破した刹那、本作は「ジャンル無効小説」としての、恐るべき真の力をいきなり全開にしてラストまで突き進むからだ。

 さて、『幽玄F』では三島由紀夫についての言及が目をひく。実際、作中にていろいろな形で三島オマージュが仕掛けられている(特に『豊饒の海』推しらしいことが窺える)が、三島由紀夫といえば『金閣寺』である。他作品に比べ(私の知る限り)圧倒的に「知ってる+実際読んだ」率が高いこともあり、字数の限界と戦う本稿では『金閣寺』絡みに絞って述べてみたい。

 見ようによっては美点でもある三島由紀夫の最大の問題のひとつは、人智を超えた要素の介在が生じる場面についても、語り手のモノローグの言霊力と表現力が並外れているため、結果的に人智の枠内でパーフェクト説明可能なものに見えてしまうあたりだと、個人的には思う。『金閣寺』では、

 

(1)非リア充の境遇を極めた語り手が、永続性の象徴となる偉大な「モノ」を破壊することによって普遍的な「観念」「道理」を覆すという、魔道錬金術じみた逆説的哲学を突き詰めて実行する独占激白ストーリー。

 

(2)人智を超えた「絵図」の一端を無自覚に描くための段取りをインプットされ、自身の意図を超えて誘導されてしまう人物の記録。

 という二面的な内容が重なって進行する。ここで(2)の要素について、(1)の語り手は自覚していない。そもそも、人間知性の外部の文脈に由来する②のためのお膳立てとして用意される各種状況についての地上的「解釈」として、語り手が頑張って(1)を構築してゆくのだから仕方ない。しかし多くの読者には(1)の印象しか残らないのだ。作中の端々で「明晰さこそ私の自己なのであり、その逆、つまり私が明晰な自己の持主だというのではなかった」など、(2)についての気づきを誘導するヒントは何気に設けられているのだが、たぶん足りない。ああ、読者をそう仕向けてしまう三島由紀夫の圧倒的エモーショナル情念パワーこそ罪深い! とついつい言いたくなるが、あの学僧の独白を、言霊デチューンされた形では誰も(私も)読みたくないわけで、文芸界の総意としてこの点は修正不可なのであった。なんという自己完結的悲劇!

 そしてその問題に、『幽玄F』はガッツリ挑んだといえる。

 傍目には理解困難な自壊的行為に至る道行きを描くにあたって、本作の主人公の(内的表現を含む)寡黙さは、『金閣寺』の語り手の(内的表現における)雄弁ぶりとあまりに対照的だ。そう、三島由紀夫ワールドでは語り手の表現というか憶測の深み・鋭さが現実環境そのものを構築する勢いなので、客観というものがそもそも存在しないマジックが発生する。『幽玄F』はその点、主人公と外界の関係がクリアに見てとれる状況であり、これは「語り手の主観ノイズで情報汚染されていない」再構築バージョンの『金閣寺』といえるだろう。実に面白すぎる試みだ。

 機械的にも見えかねない主人公の執念は結局、既存のどの現実合理的シナリオにも適合しない形で終焉を迎える……あるいは結実する。本作のプロモーション言霊のひとつに「護国」があり、何やらウヨい思想が語られるのかと思いきや、実はそうでもないというか全くない。主人公がシンクロしてしまう仏教的な上位意識に「護国」コンセプト本体が存在すると考えられるが、その発露は決して地上の衆生が感覚的に即納得できるものではない、という可能性が示されているのが興味深い。これは神林長平の『戦闘妖精・雪風』で描かれた「てっきり人間対エイリアンの戦争だと思っていたら、実は地球型AI対エイリアンの戦争でした」という人間存在の卑小観とも通ずる面があり、大いに考えさせられる。

 また、この有用な「神の道具」としての人間に、第五世代戦闘機というのは実にマッチするデバイスだ。極限に高機能化されたコクピットにヘッドマウントディスプレイを装着したパイロットが着座した状態は、過去の何よりも「情報的に最適化された曼荼羅」と呼ぶに相応しい情景だからだ。トム・クルーズ主演のあの映画がいくら面白くて出来が良くても、この深みまでは描けまい!(笑)

 ……で、改めて感じるのは。

『幽玄F』には、二つのマインドが分かちがたく混在し、絡み合っている、ということ。それはあけすけな表現をすれば、①文芸系と、②ミリオタ系だ。そして読者が本書に接するにあたり、①②それぞれの業界的価値観内に留まりながら読破するだけでは、おそらく真の満喫には至らない。(1)or(2)ではなく、(1)and(2)的な読み方が出来るかどうか、がポイントだ。

 それはある意味、ジャンルが細分化されきった現代文化に生きつつ総合的な知性を維持するにも重要な話であり、この場合、たとえば文芸系とミリオタ系、いずれに由来する読者が「より深みから」作品の真意をつかみ取ってくるのか、といった面にも注目してみたい。

河出書房新社 文藝
2023年冬季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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