植松三十里(みどり) イギリス人の女御老公とひとり助さん格さんの旅『イザベラ・バードと侍ボーイ』(集英社文庫)

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イザベラ・バードと侍ボーイ

『イザベラ・バードと侍ボーイ』

著者
植松三十里 [著]
出版社
集英社
ISBN
9784087446234
発売日
2024/02/20
価格
858円(税込)

植松三十里(みどり) イギリス人の女御老公とひとり助さん格さんの旅『イザベラ・バードと侍ボーイ』(集英社文庫)

[レビュアー] 植松三十里(小説家)

イギリス人の女御老公とひとり助さん格さんの旅

 実在したイギリス人女性旅行家、イザベラ・バードが横浜に上陸したのは、明治維新から十年が経った五月だった。
 イザベラは欧米人が行ったことのないところを訪ねたいと、東北の山間部から北海道のアイヌの村まで、約三ヶ月かけて踏破。イギリス帰国後に『日本奥地紀行』という本を出版して好評を博した。
 実際に通訳として、この旅に同行したのが、イザベラが「イトー」と呼ぶ二十歳の伊藤鶴吉(いとうつるきち)だった。イザベラは四十六歳で、すでに何冊も紀行本を出版し、旅行家として名を成していた。
『日本奥地紀行』は、いわば女御老公と、ひとり助さん格さんの漫遊記だ。千住、春日部、日光、会津、新潟、さらに東北各地から北海道へとルートも判明している。
 今なら東北新幹線のグランクラスで優雅な旅もありだが、当時は、まれに人力車に乗れただけで、たいがいは地元の農耕馬の背に揺られるか、歩くしかなかった。
 ちょうど梅雨時で、来る日も来る日も雨に見舞われた。山道はぬかるみ、馬の足が泥に沈んで、遅々として進まない。イザベラは苛立ち、『日本奥地紀行』には、ひどい書きようも少なくない。
 山里は未開の地であり、そこで暮らす人々は未開人扱い。夏とはいえ大人も子供も半裸で、皮膚病だらけ。住まいと馬小屋が同じ棟であり、屋内は不潔で悪臭に満ちていた。北国だから、馬小屋を別棟にすると、冬場に馬が凍える。それを防ぐための優しさだったのだろうけれど。
 西洋人の、まして女性など見たこともない土地柄だから、イザベラには、すさまじいほど好奇の目が注がれた。ときには群衆に行く手をふさがれ、宿に入れば、屋根の上から部屋をのぞかれて、しまいには屋根ごと人も崩落。
 宿の子供の咳が止まらず、気の毒になってイギリス製の咳止めを与えると、たちどころに効果が表れた。すると翌朝には、薬を求めて長蛇の列。
 江戸は清潔で識字率が高く、世界の先進都市だった。明治維新からの十年間で、急速な西洋化も進んだ。でも東北は、ほとんどが戊辰戦争で新政府軍に敗北し、その痛手から立ち直れずに、発展から取り残されていたのだ。
 ただし日光では金谷ホテルの前身に快適に泊まれたし、山形県内では好天に恵まれ、整備された奥州街道を通ったせいか、イザベラは理想郷を意味する「東洋のアルカディア」と絶賛した。日本人の純朴さにも好感を示す。アイヌの村々での、ゆったり流れる時間も気に入った。
 イザベラには自著のほかに、他人が書いた評伝がある。パット・バー著『イザベラ・バード 旅に生きた英国婦人』だ。彼女のおいたちから訪れた国々、後年の暮らしぶりまでが解き明かされている。
 それによるとイザベラは来日前にアメリカ西部に出かけ、ロッキー山脈のコテージに長く滞在して、アイルランド出身のジム・ヌージェントと出会った。顔に傷があって、拳銃を腰に差し、いかにも西部の荒くれ男だ。妻子持ちだが別居中で、ひとりで山小屋に住んでいた。
 牧師の娘で、敬虔なクリスチャンだったイザベラが、ジムに恋をした。彼らは男女の仲に至ったという。そんな悪い男に易々と、はまってしまう反面、イザベラは文句を言いつつも、さらなる困難を求めて旅するバイタリティも併せ持つ。
 東北の厳しい旅に付き合わされた伊藤は迷惑だっただろうが、実は彼には出発前に別の予約があった。しかし、それを一方的にキャンセルして、イザベラの忠実な下僕(ボーイ)として働いた。家が火事になって、報酬の高さにつられたらしい。
 伊藤鶴吉に関する研究によると、三浦半島の生まれ育ちだという。ペリーが黒船で来航した浦賀から、ほどない距離に生まれ育った村があり、日本が開国すると、外国人が外出できる範囲に入った。
 おそらく幼いころから沖合を通る蒸気船を眺めたり、外国人が馬で遠出してくるのに出会ったりしたことだろう。薩摩藩の行列を乱したとして、イギリス人男女が殺傷された生麦事件は、四歳のときの出来事だ。そんな時代背景をたどっていくと、彼の人生が見えてくる。
 なぜ彼は予約をキャンセルしてまで、イザベラに同行したのか。誠実な人柄のようだし、金だけが目的とは思えない。
 イザベラもイトーも、それぞれの事情を抱えつつ、過酷な旅の中で成長していく。年長のイザベラでさえ、若いイトーから影響を受けて変わっていく。そんなロード・ムービー的な成長譚が『イザベラ・バードと侍ボーイ』だ。

植松三十里
うえまつ・みどり●作家。
静岡県出身。2003年『桑港にて』で歴史文学賞受賞。09年『群青 日本海軍の礎を築いた男』で新田次郎文学賞受賞。同年『彫残二人』で中山義秀文学賞受賞。著書に『レイモンさん 函館ソーセージマイスター』『徳川最後の将軍 慶喜の本心』『家康を愛した女たち』等多数。

青春と読書
2024年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

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