『書くことの不純』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
『書くことの不純』角幡唯介著
[レビュアー] 宮内悠介(作家)
冒険 粉飾の誘惑と葛藤
行為は純粋で、表現は不純である――。これが本書を貫くテーマであり、第一章の頭で宣言されることでもある。書くことは、本質的に不純であるのだと。著者は、冒険家でノンフィクション作家の角幡唯介氏。この主張は、多くの人が感覚的に頷(うなず)けるものではないだろうか。
つづけて挙げられる実例は、このようなものだ。あるとき川にワイヤーが架かっていたので、ぶら下がって渡河し、死の瀬戸際から脱出した。そのとき著者は、このように考えたという。「もしワイヤーではなく、川を泳いで生きのこったら、そっちのほうが話は面白くなったんじゃないか?」「そしてこんなことを考えている自分にゾッとした」
こうした表現側の要望が、死の危険を高めるだけでなく、不純であるというのだ。「書き手であることによって、行為そのものが粉飾されたり編集されたりする可能性が生まれる」のだと。また、このような葛藤は、通常のノンフィクション作品においては覆い隠される。言い換えればそれは、ノンフィクションそれ自体がはらむ一種の不実だ。そのことも鋭く指摘される。いいかげんに話を盛ったりせず、誠実な表現を模索してきたからこその疑問だろう。
と、ここまでが第一章。以降、本書は二重螺旋(らせん)を描くようにして、書くということ、そして冒険することの意味をさまざまな角度から問いつづける。その先で、著者は行為者・表現者の一種究極形としての三島由紀夫とぶつかる。本書の後半は、なんと、ほぼすべてが三島論に割かれている。自刃という手段しか取れなかった三島と異なる、より調和的な解が示されるのも本書の特色の一つだろう。
書く、表現するということは、もはやすべての人に開けていると言っていいはずだ。冒険は、生きることそのものと言い換えられるかもしれない。そう考えると、これは我々全員にかかわる、示唆に富む書でもあると言えそうだ。(中央公論新社、1760円)