<書評>『書くことの不純』角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)著

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書くことの不純

『書くことの不純』

著者
角幡唯介 [著]
出版社
中央公論新社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784120057373
発売日
2024/01/22
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

<書評>『書くことの不純』角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)著

[レビュアー] 服部文祥(登山家・作家)

◆究極の体験記す矛盾を凝視

 冒険の報告、そして生と死。ここには矛盾がつきまとう。

 探検記に絶体絶命の窮地のような場面があったとしても、書き手は生還したうえで報告しており、読者もそのことを承知している。だが、もし行為の後に原稿を書くという制約が、時間軸を逆流して、現場で行動に影響しはじめたらどうだろう。冒険は原稿を面白くするためのやらせを含む行為に堕すが、行為者が書き手であるとき、この逆予定調和ともいえる「書くことの不純」をまったく意識せずに振る舞うことは難しい。

 角幡は、これと同じ不純の構造が、実は登山や探検を志す者の生と死の境目にも存在することに意識を向ける。

 登山や探検などの冒険を志す者は、次々とより困難な課題を自分に課す。大きな対象に挑むことで、自分の生を証明したいと考えるのが、冒険者の生き方だからだ。だが、より真剣に生きようとすることは、死に近づくことでもある。もし100%出し切ってしまったら、そこにあるのは死だ。つまり冒険者は生きている限り、すべての能力を出し切った究極の体験をしたことがない(自分は不純だ)という疑念から逃れられない。

 突き詰めてそれなりの成果を上げた冒険者・探検者・登山者には40代前半で遭難死する者が多い。角幡は、意識が求めるレベルと身体活動のレベルの間に、40代前半でギャップが生じ、そこが生き残りのボーダーラインになるからだ、と分析する。

 だが、この探検的厄年の先にも、究極の体験へ別のアプローチが存在する。例えば登山であれば対象の山を征服するのではなく、その山の循環に入り込むように寄り添うこと。山を登るのではなく、山とともに登る。そこには予定調和を超えたダイナミックな世界が広がっている。

 角幡がこれらの持論を展開する材料は、自身のこれまでの体験や著名な探検家や登山者はもちろん、ハイデガーや三島由紀夫、開高健、本居宣長などに及ぶ。小難しそうで、論の展開は切れ味鋭く明確。本書により登山や探検は新たな時代に突入した。

(中央公論新社・1760円)

1976年生まれ。作家、探検家、極地旅行家。『空白の五マイル』など。

◆もう一冊

『狩りの思考法』角幡唯介著(清水弘文堂書房アサヒ・エコ・ブックス)

中日新聞 東京新聞
2024年3月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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