『夏空 東京湾臨海署安積班』
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今野敏の世界
[レビュアー] 関口苑生(文芸評論家)
作家・今野敏さんの新作『夏空 東京湾臨海署安積班』が刊行された。著者の今野さんは、短編小説を書くのは大変だといいながらも、「安積班」シリーズの短編小説の執筆を続けている。警察小説と短編小説の魅力を文芸評論家の関口苑生さんが語る。
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「長編小説一本と短編小説一本を書くのは、実は同じくらいのエネルギーが必要なんですよ。長い、短いは関係なく」
これは、あるインタビューで今野敏自身が述べた言葉だ。われわれ素人には、にわかには信じがたい言葉である。現実に、まずかかる時間からして相当に違うだろうし、ほかにも調べ物をする手間やら集中力を持続させる時間やら、何から何まであれこれ違って当然だろうと思うからだ。
ところが、彼に言わせれば、小説というのは、物語を終わらせることが一番大切で大変なんだという。これもまた短編は枚数が短いだけに、長編よりもはるかに楽だろうと思いがちだ。しかし、そこに落とし穴がある。
その前に、きちんと面白く読んでもらわなければならない(=読ませる)という絶対条件がつくのだ。
そのためには高度な技術が必要になる。枚数に制限があるため、無駄な描写を削ぎ落とし、キレのある、冗長にならない文章を書くことが要求されるのだ。また一行目から読者を引き込む力業も必要だろう。だらだらと書いてはいられないのである。長編のように、起承転結の流れに沿ってストーリーを組み立てる暇などないと言ってもいい。いや、短編の場合は起承転結はかえって邪魔になってしまうかもしれない。時として「起結」や「承結」で物語を作っていかなくてはならないのだ。あるいは凝りに凝って「結」をあえて書かない場合もある。それでいて、きっちりと最後まで書き上げ、物語を終わらせなければならないのである。これが厳しく、難しい。だからこそエネルギーが必要とされるのだった。
今野敏は、そんな短編を書くのが大好きだという。ことに、安積班シリーズのように長く続く作品は、作家の力を発揮するのに絶好の場でもあるし、またトレーニングにもなるというのだ。シリーズ作品の良さには、巻を重ねるごとにキャラクターが成長していくさまを見られるということがあるが、それは主人公に限っただけの話ではなく、脇役たちにも同様のことが言える。長編ではなかなか描写できないそうした脇役たちの素顔、意外な側面が思う存分に描けるのである。すると、作品全体にも厚みが出てくるのだった。
読者というのは、全体のストーリーは覚えていなくとも、細部のエピソードは覚えていることが多いという。あそこで速水がこんなことを安積に言って、それを聞いていた須田が照れ臭そうな顔をしたとか、何気ない描写が積み重なって物語が進んでいくのである。
本書は、そうした短編の魅力と、高度な技術が思う存分に発揮された、しかもエピソード満載のお手本作と言ってよい。
たとえば冒頭の「目線」は、須田が榊原課長に叱られたという噂話を安積が耳にするところから幕が開く。さらに須田と水野がやり合ったとの噂もあり、それだけでもう引き込まれているのだった。ほかにも署長が暴力団幹部と会食を共にしたとの話を新聞記者に掴まれ、何とかしてくれと頼まれた安積の逡巡を描く「会食」。地域課の優秀な巡査を、強行犯係と交機隊、それに機動隊がそれぞれ自分のところにスカウトしようと画策する「志望」など全十編。いずれも見事な出来ばえの作品が並ぶのだ。
どの作品も短さはいささかも感じられず、読み終えて、ああいいものを読んだなぁとしみじみと思わせてくれるのである。これが今野敏の魅力であり、誰も真似のできない職人芸なのだった。わたしの好みは、捜査する側とされる側の双方、それぞれの世代間のギャップを描いた「世代」だが、いずれにしても読んで満足することは間違いない。