『ニッポンのムスリムが自爆する時』
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タイトルは物騒なれど知見に瞠目 「少数派」に必要なものとは何か
[レビュアー] 田原牧(東京新聞論説委員)
「多様性」とか「共生社会」といった言葉がかまびすしい。だが、当のマイノリティー(少数派)はこの現象を眉唾で眺めているのが実相ではないか。
そうした日本社会の少数派集団の一つにイスラーム教徒(ムスリム)たちがいる。
欧州ではムスリム排斥の動きが政治化して久しいが、日本でもあり得ない話ではない。
そうした事態を防ぐためにイスラームを巡る言論を喚起したい。ムスリムでイスラーム研究の俊英である松山洋平氏(東大イスラム学研究室准教授)は本書を上梓した動機をそう説く。
著者は1984年生まれで10代で入信した。本書はエッセイ(論考)集でタイトルこそ物騒な響きがあるが、内容は優れた知見がちりばめられている。
例えば、著者は多数派から見て話の分かるムスリムらを警戒する。彼らは当事者団体などで実権を握りがちだが、差別や偏見に敏感な身内たちには冷淡だという。これは全ての少数者集団に共通する傾向だろう。
あるいはイスラーム圏以外で生きる人びとでも、唯一の造物者を信じる者はムスリム同様に見なされるというマートゥリーディー派(神学の一派)の解釈が紹介されている。その知識量には圧倒されるばかりだ。
ただ、あえて注文を付けるなら、生身のムスリムたちの息づかいをもっと感じたかった。
それは本書にあるイスラームを主題とする日本文学の不在についての考察にも関連しよう。豊穣な作品群があるキリスト教との違いはどこにあるのか。
一見、信仰とは無縁な無頼の偉人、故色川武大は著作『私の旧約聖書』で「正直言って、私がお前の造物主だ、といって誰かが現れてきたら、相手の懐に飛びこんでいきたい気持もあるのですが」と記した。
対象がクルアーンでも構わなそうだが、それが旧約聖書なのは存在感の差に違いない。
著者も指摘するが、戦前には日本のアジア主義者とムスリム知識人の接近があった。だが、それは政治領域に限られた。
ここでいう存在感はむしろ社会的な蓄積で、人間と信仰の織りなす結晶だ。まして文学は対象が信仰であれ、観念であれ、生身の人間との緊張関係に生じる。日本のイスラームにはその堆積が十分とは思えない。
少数派に必要なことは多数派による「理解」よりも、存在を認識されることだ。生身はその意味でも重要である。
同氏は卓越した学識の鎧で武装する。その鎧の合間から生身がちらつけば無双に違いない。